先生のタネ

ひとのあいだ(ゆたかな教育実践のためのタネ) 

 すべての学校教育の基盤となる、〈支え合う学級・つながる仲間〉づくりについて、先生たちと語りあったり、工夫や情報交換をしたりした内容や、本校で取り組んでいる実践を「ギュッ」」と記しています。

☆54日目(4.30)子どもたちが主体的に活動するオキナワ
 広島研修の事前指導時に、「子どもたちが、実行委員会を中心に、〈主体的に活動する研修〉のあり方、組み立て方ってどうすればよいのだろう?」と話題になりました。コロナ禍前のオキナワ修学旅行の際に、同僚らと共に、子どもたち自身が運営する修学旅行を計画・実施することができました。日程のデータにもたくさんの意図した工夫があります。





☆53日目(4.26)T先輩から「おわりに」

「大阪大学の志水宏吉氏によると『社会学の領域では、「マイノリティー」は、次のように定義づけられている。「何らかの属性的要因(文化的・身体的等の特徴)を理由として、否定的に差異化され、社会的・政治的・経済的に弱い地位に置かれ、当人たちもそのことを意識している社会構成員。具体的には、「先住民や歴史的・地位的少数者も含まれ得るし、場合によっては女性・子ども・障害者なども含まれる可能性がある。」とされている。この定義から明らかなように、マイノリティーとは、ある社会の構成員のなかで相対的に弱い立場に置かれた「社会的弱者」のことである。』彼は、ニューカマーと呼ばれる新たに日本に来た外国人の問題を論じ、『彼らが日本の地域社会や学校・教室に提起する文化的異質性は、例えば、「在日」や「部落」の人々が示すそれよりもずっと可視的なものであるにもかかわらず、それに対する日本社会の側での対応は思いのほか鈍い。ニューカマーに対する教育支援の方途を実践的に探求することは、彼ら自身にとって有益であるのみならず、それが我が国の学校文化の体質自体の変革につながるという意味で、われわれマジョリティーたる日本人にとっても大きなメリットとなるに違いない』『「彼ら」の問題は、実は「私たち」の問題である。マイノリティー問題にこだわる意義は、その点にこそあるのである。』(『学校臨床社会学』~教育問題をどう考えるか~)と指摘している。長年、同和教育が『差別を生み出す学校を変革する』と主張してきたことと同じである。被差別部落の子どもたちの教育権を保障する取り組みは、その子たちだけでなくすべての子どもたちの教育権を保障する取り組みにとって力を発揮してきた。
しかし、同和教育の長年にわたる取り組みにも関わらず、いまだに部落問題を自分の問題と捉えられない人は多い。いまだに差別はしないまでも問題を忌避したり、問題から逃避したりする人は、少なくない。差別問題やマイノリティー問題への関わり方を切開すると、自分の意識や生活のありようを規定するものが見えてくる。偏見は持っていなくても差別意識は持っていたというのが、個人的な経験である。その差別意識から自分を解放したいというのが、「私の」問題としてこの問題に関わり続ける所以である。
ニューカマー問題が日本人としての意識や生活のあり方をも照射するように、日本固有の問題である部落問題はこの国のあり方を明らかにする。この国が国際社会で名誉ある地位を得るためにも、すべての人が各自の能力を発揮し社会のために貢献できるようになるためにも、マイノリティー問題など社会に存在する諸問題に無関心であってはならないのである。子どもたちがこれらの問題を自らの問題として認識し、具体的な取り組みを通じて、その解決を展望できる力を学校教育は保障することが大事な仕事となるのである。」





☆52日目(4.25)個に応じた学習
 今から20年前の論文を前提に読むとこれも意味深いと思います。
 「情報教育はコンピュータ活用教育の域をいまだ脱することができない現状にあるが、徐々に個別学習での成果も上げつつある。近年、「個に応じた学習」という研究がはやっている背景もある。たしかにコンピュータを活用すれば、個々の興味や関心・能力に応じた学習プログラムが可能である。これまでも一斉授業の中でも個に応じた指導はなされてきたが、コンピュータの登場は授業の画期的な変化を予想させた。学校は、問題解決的な学習にとって有力な手段を手に入れたといえよう。

しかし、最近は個に応じた学習というと、小集団学習であり、習熟度別学習であると捉えられているかのようである。ここにも学力向上問題が影を潜めているといえるかもしれない。習熟度別に小集団を組織してそれぞれに応じた課題をあたえるという発想は、効率主義の発想であって、個に応じたものとは言いがたい。小集団としての把握はなされても個としての存在は想定されていないからである。答えのはっきりした課題を確実にこなす学習や技能の獲得を目的とする授業にはこれが向いているのであろう。
情報教育で注目されるようになった個に応じた教育活動は、相互教授と呼ばれる。1台のコンピュータを二人で使うことにより、友達がアドバイザーとなることによって、知らず知らずのうちに技能を修得する学びである。友達が自分のモデルとなるのであり、自分よりも優れた者から学ぼうとする学びである。このようにして個々の得意分野を互いの学習に生かす、これは協同学習の一つの形態ともいえよう。赤堀侃司氏によると、これらは教育学者ビゴツキーによって発達の最近接領域理論として整理された。『すなわち、この発達の最近接領域では、学習者個人の問題解決能力は、大人である教師や一定のエキスパートなどの指導下ばかりでなく、より能力の高い仲間がいる場合にも高められ、より高次の発達水準へ導かれ、引き上げられるとする。』同じ集団の中に近似的に能力や技能の違う生徒がいることによって、相互の助け合いや教え合いが効果的に行われるというものである。
人権教育はその学習過程の中に相互に認め合い、協力し合う学習が必要になる。なぜなら、人権教育はその目的が重要であるだけではない。その学習過程そのものが民主的でなければならない。そのような意味でも小集団学習を取り入れるとしても、集団編成は均質な小集団であるよりは、できる限り多様な価値が交錯するような集団編成が目的意識的に追及される必要があるのである。」(続く)




☆51日目(4.24)協同学習
 「日本では古くから班活動など集団を活用した指導がさまざまな面で見られてきた。したがって協同学習といってもさほど抵抗なく導入できるように思う。この協同学習の概念は情報教育の進展に伴って脚光を浴びるようになってきた新しい領域である。
 従来、教師から一方的な新たな知識が与えられ、生徒はそれをいかに効率よく吸収し、自らのものにするかがこれまでの学習であったといってよいだろう。つまり、知識は個人の頭の中に個人の努力によって蓄積されるものだという知識観が横たわっていた。しかし、技術革新やあふれかえる情報のなかで、知識は絶えず陳腐化し更新される高度情報化社会にあっては、知識は個人の頭の中に蓄積するものではない。知識は状況や活動の中で生成され道具や他者との間に分かちもたれるものであるという考えに変わってきている。インターネットを想起すればこのことはよく分かる。誰も呼びかけたわけではないにもかかわらず、さまざまな能力を持った個人がそれぞれの能力を生かしてサイトを創作している。利用者はそれらの中から自分に必要な情報・知識を引き出し、活用する。そうした営みを通じて自然淘汰されながら、結果としてそれらの情報・知識は社会に広まり共有されていく。だから、教師に必要なのは、何か教える内容を先に決定するのではなく、状況に応じて生徒の必要とするものを見つける手助けをする力である。こうした中では教師と生徒の関係は、教え-教えられるといった固定的な関係ではありえない。これを意図的に構想したものが協同学習だといってよい。
 東京工業大学の赤堀侃司氏の『情報教育論~教育工学のアプローチ~』によれば、コンピュータを道具として活用することによって、お互いの知識・考えを共有し、問題を解決していく学習を協同(協調)学習(Collaborative Learning)と呼んでいる。教室で取り扱う学習内容が人権問題や環境問題のように多面的な観点からの考察を必要とする内容であれば、情報・知識は必然的に教室の枠組みを越え、世界中の他者と結びついて獲得される形となり、学習は発展する。いわば問題解決を通じて学習共同体が出来上がっていくのである。そうなると、学習とは、このような学習共同体に参加することとなる。ここでは学習は主体的に展開されるのであって、教育ではなく学習が目的となっている。「低学力問題」を学びからの逃避としてとらえる東京大学の佐藤学氏の「学びの共同体」も同様の課題を提起している。学力は能力の一部であると同時に人格の一部である。佐藤氏は、協同的で反省的な学びとそれを支える同僚性の構築こそが今日の学校を再生する道であるという。これまで人権教育とは縁の薄いと考えられてきた領域に共通する課題が発見できるようになってきたといえよう。」(続く)



☆50日目(4.23)~学校を基礎としたカリキュラム開発
 「地方分権が今後の政治の重点課題となっており、学校教育についても開かれた学校づくり、特色ある学校づくりという形で、地域にしっかりと根を下ろした学校づくりが始まっている。今後、校長に経営責任の強化とともに予算権や人事権が付与されるなど学校としての独自性が発揮される条件は拡大していくであろう。
放送大学の新井郁男氏の『教育経営論~生涯学習社会形成の観点から~』(放送大学)によると、1979年にOECD経済開発機構の教育研究革新センター(CERI)は、子どもたちをトータルに育てるための学校組織の改革に関する報告を行い、その中で学校が法的・行政的に自立性を持ち、専門性に基づいて独自の教育活動を創造することの重要性を説き、それを学校に基礎を置いたカリキュラム開発(School Based Curriculum Development)と名づけた。SBCDが可能なのは、①学校が関連するさまざまな組織と有機的な関連を持ちながら、独自のカリキュラムを編成する自由を持っていること ②教師と生徒が各自の経験を教育的な力として生かす自由な活動が保障されていること ③地方から中央にいたる種々の機関や団体など学校以外のレベルでのカリキュラム開発も容認されていること、だとされている。こうすることによって特色ある学校づくりが持続できるとしている。今後の教育改革が児童の権利を保障する国際的な流れを受けて、このように理解されていくか、先に指摘したような偏狭なナショナリズムに収斂されていくかは大きな分かれ目といえよう。しかし、いずれにせよ、子どもたちの現実・地域の環境を踏まえて教職員が独自にカリキュラムを創造できるような力量を身につけていかねばならないことに変わりはない。
 「学力低下」問題を経て、今日ではあたかも「基礎学力か問題解決力か」という二者択一的な発想を押し付けるような問題の矮小化も進んでいる。当然のことだが、「学力も問題解決力も」でなくてはならない。カリキュラム開発としては、それをどう構造化していくかが課題である。基礎的な学力をつける学習には教師の指導は必ず必要だし、授業形態も一斉授業による指導も有効性をもつ。また、こうした学習では、目標―下位目標―行動目標―教材―教授―評価といった一連の流れが一般的である。しかし、創造的・発展的・問題解決的学習には教師は指導よりも支援が必要で、授業形態も協同学習が有効である。また、目標から支援までの間は学習者の反応に応じ、支援者の創意を生かしながら創造的な学びが展開されるという『羅生門的アプローチ』(注5)が注目されている。人権学習のような考え方や感じ方にかかわる教育内容は行動目標による評価にはそぐわないことから、目標の途中変更も可能な授業形態が望ましい。どちらが優れているかではなく、内容や活動に応じて、一つの単元でも組み合わせるような取り組みが必要となるのである。人権学習の場合は、協同的で問題解決的な学習が適していることは明らかである。」





☆49日目(4.22)「人権教育の歩みとこれからの取り組み(2004)」から考える 
2004年当時、同和教育が「人権教育」へ変わろうとしていた時にT先輩がまとめられた論文がとても参考となります。また20年前に「これからも取組」として書かれた内容を2024年現在に読み返すととても考えることが多いと思います。
『人権教育の歩みとこれからの取り組み』から一部
「例えば、子どもたちの主体的な活動を組織する場合、生徒会組織や学級会組織をよりよいものにしようと工夫する学校は多い。しかし、その組織化の過程から生徒の主体的な参加を保障する学校はそれほど多いとはいえない。まして指導教員があれこれと枠組みを作ったりすると、生徒の意識は「活動は教師の許容する範囲のものでよい」とすることになりやすい、といったことである。この場合、指導方針や具体的な助言が子どもの主体形成に大きな影響を与えていることになる。同和教育についても同じことが言える。部落問題学習のときだけ民主的な授業をしても子どもたちからの信頼は得にくいものである。つまり、学校生活全般が授業であろうと生徒指導であろうと施設設備の利用や時間の区切り方であろうと、どこを切り取っても民主的であり、人権の姿が見えるようになっていることが必要なのである。部落問題を扱えそうな特定の教科・領域だけでなくすべての教科・領域で人権の観点で教職員と子どもの関係ができていなくてはならないといえる。そのことが了解できれば、自分は体育の教師だから教科としては同和教育にはあまり関われないなどということはないはずである。問題は、こうした観点で学校教育のあらゆる場面を眺めてきたかどうかということである。
そのような意味では、学校にいる教職員だけでなく、学校教育にかかわるすべての人が自らの人権感覚を持って、お互いの仕事やその進め方に対する“気づき”を大事にしながら、協働できる体制作り=学校経営への参画を担う必要がある。全同教加盟同教組織では、教科・領域の壁を打ち破るべく同和教育教材の作成に力を入れた時代があった。いわゆる人権学習の時間設定である。そして今、同和教育は、総合的な学習の時間に期待を寄せ、人権総合学習という形で進められていこうとしている。それは大事な取り組みだが、文字通りあらゆる場面での取り組みとはならない。むしろ、同和教育・人権教育は総合的な学習の時間の中でといった囲い込みに絡めとられていく道でもある。そうではなく、潜在的なカリキュラムを顕在化させ、その評価を学校教育の中に取り込む方法を研究すべきだと思う。学校の中の何が子どもたちの人権意識を磨いているのか、何がそれを阻害しているのかということである。この作業は、別の言い方をすれば、学校における人権文化を構築するための作業とも言える。これからのカリキュラム開発でぜひとも考慮してほしいものである。」(続く)






☆48日目(4.19)「綴る」ことから。
前掲で、90年代の本であることにびっくりしたと声もありましたが、引き続き北窓さんの本から一部を紹介します。
「子どもが綴る、教師も綴る」(P90~P92から)
 私はこれまでに、いくつもの胸に熱いもののこみあげる感動的な実践報告に接する機会を得ました。そのすべてが、子どもたちの姿を丹念に伝えてくださったものでした。「子どもを綴る」ことの延長線上にそれは位置しています。
そんななかの一つにこのようなのがあります。
 
 心閉ざすもの
大阪と京都の国境に、天王山がある。そして天王山のふもとに、大阪水上隣保館「はるか学園」は建っている。
一弘くんとゆかりちゃんは、ここから学校に通っている。一弘くんには母がいない。四歳のときに病気で亡くなったのだ。弟はまだ二歳だった。一弘くんの父は、「一家心中するよりはましだ」と考えて、身を切られる思いで二人を「はるか学園」に預ける決心をしたそうだ。
 子煩悩なお父さんは、日曜日には面会に来られ、一弘くんも弟も、そんな父にとてもよくなついているようだった。
 しかし、他の大人には人見知りのはげしい子だった。入学当初、どんなににこやかに話しかけても返事がなく、蚊のなくような声で「ウン」だけが言えた。
 一方、ゆかりちゃんはといえば、笑顔を見せることがまったくなかった。教材「おらたちにゃ口はねえだに」のあの「もりい」のように、心を固く閉ざしたまま口を開くことがなかった。
 抱きあげて笑いかけても、逃げるように腕をすりぬける……そんな子だった。
 ゆかりちゃんには両親がいるのだが、面会もほとんどなく、兄と二人「はるか学園」での生活を続けている。
 もの心つく頃に親の愛情を欲しいままにできなかったさびしさが、ゆかりちゃんの心の扉を閉ざし、さらに言葉をうばったにちがいない……、そう思った。
 
 こだわり
それは、7月7日のことだった。子どもたちに短冊をわたし、願いごとを書かせた。楽しそうに無邪気に鉛筆を走らせる子どもたちのなかで、まったく手を動かさない子が二人だけいた。一弘くんとゆかりちゃんだ。二人をよんで話した。
「ねえ、何かお願いごとないの?」「書けない字があるの?」「何書いてもいいんだよ」
うなだれる二人に、私はたてつづけに言葉をあびせていた。
 いま思えば、あまりにも冷たくひどい言葉だった。自分たちの願いごとが容易にかなわぬことを知っているからこそ、何も書かずにいたのかも知れないのだ。
 さらに私はぬけぬけと続けていた。「おとうさんやお母さんと会いたいでしょう」と。
二人は、じっと私の目を見つめていた。私の心のなかを見透かそうとするかのように。
私は、そのときすでに二人に、「感性の鈍い教師」として見切りをつけられても仕方なかったのだ。しかし、その場は救われた。
二人は短冊を書いてくれたのだ。
 
おとうさん たなばたです おとうさん  一弘
 
おかあさんと あそぶように してください  ゆかり
 
「ああ、書かせるんじゃなかった……」
私はもう後悔していた。それは、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。二人のすがりつくような思いをどうしてやることもできないくせに、無責任に書かせた自分がどうしようもなく惨めだった。
 実は私は結婚するとき、親の承諾の得られないまま強引に己の道を貫いたのだが、その代償は大きく、私は親から半ば勘当されたような形になっていた。
 親に会いたくて会いたくて会えぬつらさを、私は痛いほど思い知らされたのだ。だから、一弘くんやゆかりちゃんの心と重ねられるにちがいないと、勝手に思いこんでいた。
 しかし、二人の短冊はあまりに重すぎた。私は、この重たい思いを真摯にうけとめねばならぬと思った。私自身はもちろんクラスの子どもたちと、その重さを分かちあいたいと思った。
 この短冊にこだわり続けることから、学級の仲間づくりは始まった。 (『仲間をつなぐ人権学習』解放出版社P50~53より)











☆47日目(4.18)現実とつなげる学級づくり
 ◆北窓正明さん著書『仲間をつなぐ人権学習』 第2章「人権主義の生き方を求めて」(P85~86より抜粋)を紹介します。
・・・差別事象は実践の弱さの投影
 たとえば、次に紹介しますのは、小学校二年生の「おてがみ」の学習のなかでのことです。この作品はアーノルド・ローベル作、三木卓訳で、大阪の解放教育読本『にんげん』にも載せられているものですが、友だちのいないガマくんのその寂しさを自分のことのように感じたカエルくんが、ガマくんにおてがみを出すといったストーリーのものです。
 誰からもてがみのこないガマくんは、「とても不幸せな気もちで……」というところの「不幸せ」を、先生は子どもたちに聞きました。「みんなにとって、不幸せってどんなことかな?」と。その言葉にひとりの子がたった二行つづったのです。
 
「ぼくのふしあわせ。スブ、きのしたひでお、たかだひでお、ぼくはわからないです。」
 
担任の先生はこの子の書いた作文を私の前において、大粒の涙をボロボロと流されました。
「きのしたひでお」というのは、お父さんの通名です。「スブ」っていうのは朝鮮名、本名です。そして、「たかだひでお」はお母さんの姓です。「ぼくのふしあわせ」と題して書いた小学校二年生のこの子の頭のなかを、否、暮らしそのものが、この三つの名前をぐるぐると回っているのです。そのことが痛いほど担任の先生に見えているから、涙せざるを得ないのです。
 通名を名のり、本名を名のり、時には父さんと母さんが別れて、母さんの姓を名のり……。そういう暮らしの現実がこの子のなかにあるのです。
 子どもたちが現実にくらしのなかで抱く疑問、それにどうきちっと答えていくのか、それは何年生から部落問題を教えるのかということじゃないのです。就学前の子であろうと小学校低学年の子であろうと、生活のなかで持つ疑問やおかしいなと感じることがあります。それが自分なりに答えが出ない時に、子どもたちは日常的に引っかかりをもち、いらいらし、そして高学年になり体力がついてくると「荒れ」るのです。それぞれの年令なりに深い浅いはあれ、部落問題学習が子どもたちの生活現実、生活意識から出発してすすめられねばならないのです。(1990年発行)











☆46日目(4.17)自尊感情をキーワードに。
 人権教育を核とした学級づくりのキーワードのひとつは、「セルフエスティーム」。ちなみに、キーワードはあとふたつあります。「コミュニケーション能力」「アサーティブネス(非攻撃的自己主張)」がそれです。(大阪府同和教育研究協議会の「わたし 出会い 発見」から引用。)
すでに、もうよく聞かれる概念ですが、あらためて「自尊感情(セルフエスティーム)」について。これは、「一生懸命生きているから自分が好きだ」という気持ちである。自分を否定するのではなく肯定的に認め、「自分らしさ」に自信をもち、自分を価値あるものとして思えるようになることである。そうして、自分の立場と自分の生き方に「誇り」がもてるようになると、これがアイデンティティの確立ということである。逆に言えば、自分のことを大切に思えないならば、人のことを大切にしようという気持ちも起こりにくいということである。
 これは例えば、これまでも部落の子の「どうせオレなんかあかんねん」「高校行かれへんねん」「どうせ差別されるねん」という叫びに対して、その子を立たせようと必死の思いでかかわってきたことにつながるものである。
 また、「いじめ」問題や差別事件の解決についても同様の問題に突き当たったはずである。原因をたどっていけば、加害者自身がつらかったり寂しかったりという生活体験の中で自分を大事にされず(「どうせオレなんか」)、自分も人も信じられなくなり、相手や被差別の者への共感がもてず、そうした恨み・つらみのはけ口としてねたみや反感を抱き(「なんでアイツばっかり」「オレだってしんどいのに」「あいつなんかどうなっても構わない」)、いじめや差別をしてしまうという深いいたみに出くわすケースが多かった。
 これらに対しても、これまで同和教育の中で、生活を綴ったり生い立ちを語る中で、自分や親を見つめなおし、これまでのつらいことや反感・憤りを克服し、自分の立場に誇りを持って、差別やハンディに負けない生き方を見つけようとしてきた。これは、まさに自尊感情を育て、アイデンティティを確立することである。逆に言えば、自尊感情がしっかりしていることは、差別に対してしっかりと向きあい、世界の諸問題にも目を向けて行動できる基礎となるのである。










☆45日目(4.16)八ツ塚実さんの学級通信(3の3)
1983~1985学級の記録第3集より
□世の中が、どんなに急テンポで変わろうとも、教育の世界の方法や理念は、そう安直に変わるものではない。やっぱり、手間ひまかけてかかわりきらなくてはならない。 私はひたすらに「まじめ」作りに専念してきた。 「まじめ」さの欠落こそ、諸悪の根源だと考えている。まじめさを失った社会は、無礼・非礼の温床となる。人と人の間には、お互い暗黙のうちに守りあってきた「けじめ」というものがあった。これがあるがゆえに、わたしたちはささやかな平安を守ることが出来た。無礼・非礼は、この大切な「けじめ」を足げにしてしまう。
 「けじめ」なき社会・・・それは「いじめ」社会にほかならない。
 「まじめ」「けじめ」「いじめ」という語呂合わせめくが、私は今こそ、この部分に着目する必要があると考えている。(中略)教育の基本は「人権への覚め」をうながすことであると考えているし、「市民の作りあげる礼儀」こそ人権の形として現れたものと考えている。      
□さあ、わたしたちがつくる学級通信はどんなものであるか。






☆44日目(4.15)八ツ塚実さんの学級通信(3の2)
1978~1980学級記録第2集より   
□工夫もなく、愛もなく、努力をおしまぬ情熱もないから、当然そうなる。永年のアグラのツケがいまつくつけられている。
□それに加えて、世の中心となる考えは「経済的な効率」の論理だ。粗雑な人権感覚だ。さらに「家庭の崩壊」が追いうちかける。はびこる口先だけの評論が、この荒廃論議を一層まぜかえす。
□私はまゆをしかめない。「荒廃」の語もしり馬に乗って使うつもりはない。むしろ結構なことだと思っている。
□押さえ込んで統制をつくろうときではない。全く新しい理念を、いまこそ創造するときだからだ。私はえたいの知れない「教育の権威」をかさにきてこの仕事を続けるつもりはない。
□教育は荒廃しているのではない。いつの時も新生の模索の中にある。もし今の状況に「荒廃」の語を使うなら、日本の教育史のどの時代が荒廃してなかったというのだろう。それぞれの時代がそれぞれの時代を背景にして、それぞれ荒廃していたではないか。
□切り捨てられて、学校へもいけない子どもたちが沢山いた時代。
  かわいい義勇軍や兵隊さんの養成所であった時代。
  死ぬことが美徳とされ、「死ね」と教えられた時代。
 個人的な立身出世の手助けに明け暮れた時代。
 それぞれの時代がぬきさしならない課題を提示しながら、日本の教育の歴史の中にある。
□なぜ、いまことあらためて教育の荒廃なのか。
□今のままで流されれば、過去のあやまりを読み落としてしまう。そればかりか、美化さえしかねない。国をあげての教育批判は,他の一切の失策から目をそらす役割すら果たしている。
□もともと教育が、そこだけエアポケットのように荒廃するはずがない。いつからそんなお化けみたいな社会力学が横行しはじめたのだろう。   
□このしごとにたずさわる全ての日々は、出発の日ばかりなのだ。結論を下したり、結果として評価できる日なんぞ、あるわけないんだ。  
□「変わるためにこそ変えない部分が必要だ」ということと「変わらないためにこそ変える部分がある」という2つのことを「学級記録」の中から学んだ。
□「あたらしい憲法のはなし」を懐かしみ惜しむ人もある。それを文部省の変節のねたにする人もある。私はどちらもとりたくはない。惜しければ、変節も許さないのなら、自分の手でつくればよい。つくらなくてはならない。無いものねだりも、あてこすりも腹の足しにはならない。   
□刻みつづけてきて、私はそこへ行き着いた。教職にあるあものの使命はまさにそれではなかろうか。
□あらためて考えてみると、私は民主主義について学んだことはないのだ。なんとなく選挙をし、正の字を連ねて開票し、話し合いもしないで多数決をやってきた。こんなことがなんで民主主義と呼べよう。
□きざなものいいとしてではなく、私は「共に学ぶ」という言葉がわが身にしみる。作りつづけ、学び続けることでのみ、ほの見えてくる民主主義。なんで私が、はなから指導者で有り得よう。歩みの中からつかまなくてはならないことにおいて、子どもとおとなの区別はない。
□日本中の教室の数だけ「民主主義の教科書」がほしい。そこでしかつくれない教科書が。このことを怠って、生きる心得をどんなに口数多く語っても、それは安っぽい人生訓でしかない。事実にうらうちされない薄汚れた授業活動は、ますます民主主義を遠いものとする。
□中学生たちと教科書をつくっていると、容赦なくわたしは教えられる。「正義のスケールの小ささ」だ。どんな小さな不正も許さない人たち」が、寄ってたかって小さな不正狩りにうつつをぬかしてきた。それが学校の輪郭となった。もともと未完成な存在である若者を、糾弾する学校や社会とは何だろう。
□あらためてはびこる教育批判なるものに耳を傾けてみよう。なんと多くのチマチマした正義による放言が混じりこんでいることか。大きい大きい不正義は、いつもふんぞりかえっている。栄光の中にある。  
□「教育の荒廃」の語が、このような風土の中で使われている事実をこそ、私はおそれる。今、ポケットに手をつっこんで、マユをしかめているだけなら、それはまぎれもなく、教育の挽歌を奏でる手助けをしているのだ。
□私は、このてみやげを携えて、あなたと教育を語りたい。あなたのてみやげから、たくさんのことを教えてほしい。このプリントは、私が中学生に教えたことではない。私も共に学んだことの数々なのだ。1981  






☆43日目(4.12)八ツ塚実さんの学級通信(3の1)
 いま、学級通信をスタートする人は多い時期かも知れません。
八ツ塚実さんの「学級記録」に書かれていた内容の一部を紹介します。
2002年、尾道にある自宅を改造した資料館に行かせていただきた時に、八ツ塚さんのお連れ合いさんに頂いた3冊の本からの内容です。
『学級記録第1集~3集(復刻)』1975~ 
                  
□教育の仕事は、「継続」という時間の軸と「集団」という人間との掛け算でできる平面の上に、「営み」のすべてをつなげて素材とした建造物を構築することである。
□随所に使われる柱や板は、すべて「人権」と「平和」の素材であること。
□一時的な「投げ入れ」は教える側の自己満足でしかなく、日常化以外には、解放教育・人権教育の目的は達成されないということ。
□生徒にとって、ひとりの人間が自分の教師であり、わけても学級担任であるとは、何であるのか。学級編成と担任任命が教育側の手で一方的に行われている現状の中で、始業式の日に即「教師」でありえるのか。
□一人の人間が、一人の子どもにとっての教師になるためには、継続して呈示した行為の評価を通じるしかないのではないか。
□「一人を大切にする」とは、何をどうすることであるのか。そのことをオームにように口でとなえるだけで達成できるのか。
□子どもの意識のすこやかな変革を願うなら「ゆっくりと、ゆっくりと」「少しずつ、少しずつ」たゆまず語りかけ、はたらきかけるしかないこと。
□珠玉にような教材は、まさに日常の自分たちの生活そのものであるということ。
□自分の生活の教科書は、自分の手でしか作れないということ。
□学校が企画し実行する年間数十を越す「行事」は、切れてそこにあるのではなくすべてつながっている。「すべてつながっている」ことこそ教材の最もたるものであること。「行事」は日常生活の総括であるということ。
□感動・悲しみ・ためいき・に対してこの「学級記録」は着目しきれたであろうか。
□私たちの仕事は、途中やめが出来ない仕事だということ。
□学校では、その活動を開始するやいなや、ただちに教科の学習が有無をいわさずに行われる。
□国・社・数・理・音・美・保体・技家・英の各教科の教授活動。人類の文化遺産のさまざまな分野を受け継ぐのだから当然のことだ。がしかし、「その前に」ないしは「それと並行して」学んでおかなくてはならないことがある。それを怠ったり、軽視したりするから学習の電車に乗り遅れたり、乗れなかったりする人ができるのだ。
            ○なぜ勉強するんだろう
            ○どうやって勉強したらいいんだろう
            ○誰もが例外なく通る道筋
            ○学力とは何だろう
            ○学びの成果で、人からとやかく言われたりすることはないんだということ。
            ○ささやかな勇気と自信
            ○自分がやっていることの意味  
 
□教師集団ということばを、あまりにも安易に使いすぎる。教師集団とは、何人かの教師が一ヵ所で仕事をする上で、時間ややり方などの一線をそろえるくらいのことをいうのではない。ましてや、線をそろえて仕事をしないでもすむような協定を結ぶことではない。一人ひとりの全力をてみやげにして、集団の質を高めることだ。    
□「これが、わたしのささやかな自己に課した実験です。ここまでなら私でも出来ます。」事実に裏打ちされたこのことばを、だれもが持ち寄らなくてはならない。集団とは、なれあいの場をいうのではない。
□私の「学級記録」は私のロマンだ。最後の最後、私がたったひとりで教室に立って、彼らと学習活動するとき時の「私の教科書」であり「私の指導書」だ。      
□卒業式 その後ろ姿を未ながら毎年自問します。「今年もひたむきに教師になろうと努力した1年だったろうか」と。
□「花はすぐ咲くもんじゃないんだ。月日をかけて咲くものだ。」目の前の花壇がそう教えてくれる。1978年3月24日









☆42日目(4.11)教科書無償化の取組について
 入学式の中で、教科書授与時にこれまで「この教科書は これからに日本を担う皆さんへの期待を込め、国民の税金によって、無償で支給されています。大切に使いましょう」と話していましたが、今年度は、相談してアドバイスを受けながら「この教科書は、よりよい社会を造っていくために、多くの人々努力によって、無償で支給されています。大切に使いましょう」としました。わずかな内容でしたが、「何を子どもたちに伝えるのか。伝えたいのか」を考えた大切な出来事でした。
 以下の文章は高知市立長浜小学校のホームページの一部です。「子どもたちは,新学期をむかえるたびに,真新しい教科書を手にし,ページをめくりながら,これからはじまる勉強に期待をいだき,進級した喜びをかみしめることができます。
 しかし,この教科書も今から50年ほど前までは,みんなが新しい教科書をただでもらえるというわけではありませんでした。
 
 その頃,教科書は,毎年,新学期をむかえる前に各家庭でそろえることになっていました。3月になると保護者たちは,古い教科書をゆずってもらったり,古くて使えないものや,ないものだけを買いそろえたりして苦労していました。新しい教科書を全部そろえると小学校で700円,中学校で1200円ほどかかりました。一日働いても300円ほどの収入しかなかったのですから,子どもの数が今に比べて多かったその当時は教科書をそろえてやるだけでもたいへんな出費でした。
 
 1960年(昭和35年)ごろになると,物価も値上がりをはじめ,教育費の保護者負担を軽くしようという動きも出はじめました。このころ,長浜地区の中でも,学校の先生たちや市民会館の館長さんといっしょにお母さんたちの読書会がはじまりました。2年ほどたつうちに,「わたしたちが習った歴史と今の子どもたちが習っている歴史は全然ちがう。わたしたちも子どもの教科書を使って勉強しなおそう。」という声が出はじめ,憲法の学習もはじまりました。
 
 その中で,憲法26条に記されている「すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。」という部分が問題になりました。「義務教育はこれを無償とするというのだから,教科書を買うのはおかしいのじゃないか。」「教科書はもともと政府が買いあたえるべきものだ。」「教科書がただでないということは,憲法で定められたことが守られていないということではないか。」ということが,話し合わされました。
 
 そして,1961年(昭和36年)3月に,長浜地区で行われた会合の中で,「いくら請願しても効果はない。ただで配るまで買わずに頑張ろう。」という提案がなされ,校区のいろいろな団体が中心になって「長浜地区小中学校教科書をタダにする会」がつくられました。
 この会は,各地で集会を開き,署名運動をはじめ,いっしょにたたかう団体もふやしていきました。教科書の無償要求は,憲法を守るための運動であるということに気づいた人々は,この運動をもりあげささえていきました。
 
 その要求の正しさが理解され,1週間もたたないうちに長浜地区で1600名もの署名があつまりました。その要求を高知市の教育委員会にもちこみ,「憲法を守るために教科書を買わない。」というたたかいを始めました。運動は,新聞やテレビにもとりあげられ注目をあびました。
 教育委員会は,「教科書をタダにする会」との交渉によって,無償の要求は正しいと認めましたが,全員に教科書を配るという約束は絶対にしませんでした。買える能力のある人は買ってほしいという教育委員会の要求をはねのけ,2000名の児童生徒のうち約8割にあたる1600名が,教科書を買わずに新学期がスタートしました。
 学校では,教科書を持たない多くの子どもたちのために,先生たちはガリ版刷りのプリントを使って毎日授業を進めていきました。
 
 その後,運動の正しさがたくさんの人々や団体・政党に支持され,全国的な運動に発展し,国会で大きな問題として取りあげられました。政府もついにこの要求の正しさを認め,1962年(昭37年)に法律をつくって,翌年から段階的に教科書が無償で子どもたちに配られることになりました。
 私たちが,今なにげなく手にしている一冊一冊の教科書には,このような運動があったのです。
 
 1961(昭和36)年からはじまった教科書無償の運動から今年で50年目を迎えました。この運動の歴史的な意義や当時のようすを,今の子どもたちや地域の方々など,たくさんの方々に知っていただきたく,教科書無償運動50周年記念パネル展を開催することになりました。 
高知市立長浜小学校【教科書無償運動50周年記念パネル展資料より】










☆41日目(4.10)子どもにとっての特別支援学級②
 2007年から、『特別支援教育』が学校教育法に位置づけられ、全国すべての学校において、障害のある子どもへの支援をより一層充実させていくことになりました。
もちろんそれまでも支援はしていたわけですが、一人一人のもっている力をさらに高め、より適切な支援をするために、このような名称となりました。
特別支援教育は英語でspecial needs educationまたはspecial supporteducationと表記されます。となると、説明の内容(草案)ですが、
・特別に助けが必要な時に、誰でも利用できる学級です。
・視力が見にくい人には、自分に合った「めがね」でサポートするように、たくさんの人と一緒の教室で学ぶのが苦手であったり、授業での進度がゆっくりがよかったり、静かな学習環境が落ち着いたりする人は、あなたに合う学習環境(教室)があります。
・あなたとおうちの人と学校の先生と一緒に教室利用について相談します。
・誰でも学習や学校生活の中で“助けてほしい”時があります。そんな時に解決するひとつとしての「特別支援学級」です。
 
特別支援学級の子たちの障害については説明する必要はありません。ただし、『接し方』については、子どもたちが疑問に思うことも出てくるでしょう。たとえば、『(特別支援学級の自閉症の)〇〇くんにあいさつをしても何も返ってこない。無視されているのかな?』と思う子が出てくるのも自然なことです。そういう時には『先生や支援員の先生ににどのようにしたらいいのか聞いてみてね』と話します。その子に合った接し方を具体的に教えてもらえることでしょう。
特別支援学級の子たちと交流することは、個々の違いを理解する上で大切なことです。早い段階で知ることにより、発達について偏見をもたずに接することができるようになるでしょう」障害イコールマイナスと考えているのは、以前の障害児教育の残滓かもしれません。
子どもたちの発達段階によって理解の仕方が変わってくるので、学年相応の働きかけの仕方があると思います。また、やはり子どもたちはまずは身近な大人の様子や考えに一番影響されると思います。
 子どもたちの理解を深めるには実際に一緒に活動する「交流活動」が一番だと感じます。ただ、その際に大切なのは、その近くにいる大人が適宜適切な話しをすることだと思います。言葉を発することができない子はどんな思いをしてそれに取り組んでいるのか、なぜ彼はじっとそこに座ってられないのか・・・。そのためにも学校・教職員集団がもっともっと理解(更新)をすすめる必要があると思います。
 ただ、やっぱり理解はすぐには深まりません。小学校1年生のその子が6年生のときに「あ~、私は1年生の頃あんなこと言っていたけど、あれは間違いだった。」と思えるように、豊かな出会い(正しい理解・ありのままをわかり合う相互の取組など)を少しずつ積み上げていくものだと思います。








☆40日目(4.9)子どもにとっての特別支援学級① 
 かなり以前、勤めていた学校での生徒総会議案検討時、いわゆる通常学級に在籍する生徒が「特別支援学級ってどんなところなのか知らない。説明してほしい」と発言した。そういえば、特別支援学級、特別支援教育について、生徒らの発達段階に応じて、正しい理解を深める学習や取組が出来てなかったことを反省した。私たち自身は、様々な書物や資料、研修から多文化共生社会やダイバーシティ、インクルーシブ教育などなどの内容を学んでいくが、子どもたちが理解できるような取組(伝え方)は、丁寧に考えていかねばいけないと思う。学校と教職員の特別支援教育観自体が問われることだと思う。
インターネットで検索すると、
[お母さんが、特別支援教育のニーズのある我が子にどう話すか?が多く記されています。]例えば
・支援学級の方が、先生が教えてくれる時間が長いんだよ。できること、今より増えそうだね!(本人のメリット)
・人数が少ない方が、話を上手に聞けるもんね。そっちの方が得意だもんね!(苦手の改善<得意を活かす)
・クラスの人数が少ない分、質問がしやすくて、すぐ教えてもらいやすいから。(本人の過ごしやすさ)
 
インターネットには、先生が本人のクラスメイトに話す例のNGな説明もありました。
①「Aさんは、支援学級に行って、みんなに追いつくために頑張っているよ」
『追いつくため』という言葉は避けたほうが良いです。支援学級の目的は、『その子に合った特別な支援を受けるため』です。
クラスの子に追くためのものではありません。
日本教育の歴史性からみると「みんなと同じ」がまだ根強いですが、ここの目的意識の違いは、お子さんの過ごしやすさを作る上で重要になります。
②「Aさんは、勉強が苦手だから、できるようになるために、支援学級に行っているんだよ。」
ポイントは『勉強が苦手だから』というところです。支援級は、欠点や苦手を改善するために行くところではありません。
「勉強ができない子の行くところ」という印象を子どもたちに与えてしまいます。
③「Aさんは、勉強をもっとできるようになるためだよ。応援してあげてね。」
『応援してあげてね』は、子どもの中で上下関係を作ってしまう可能性があります。
頑張っているのは、学校に来ている全ての子どもに当てはまり、そこに原(通常)学級や支援学級の違いはありません。
それぞれ、学びやすい場所や方法に違いがあり、別に支援学級に行くことが特別なことではなくて、自然と送り出す、迎える学級風土づくりが大切です。(続く)

 









☆39日目(2024.4.8)始業式 「綴ること」の意義
 春休み中にも生活ノートについて協議し、新年度は「やりとり帳」というものを活用することとなりました。それに併せて、生徒(学校便り「ひとのあいだ」版にして保護者にも知っていただく形式)へ資料を配り、取組の説明を行います。参考に、補足説明文は以下の通りです。

「やりとり帳」へのねがい
長い間、担任をしていて、『やりとり帳』」などの〈ひとこと日記〉や〈生活の記録〉の取組には、いろいろな思いがあります。おもなねらいは,「君たちことをよく知り、しっかり応援したい」という思いが大きかったように思います。記入の様子や内容から,「君たちの学校生活が充実しているのか」、「悩んだり、困っていないか」などの変化を見逃さず、話を聞いたり、相談を受けたりするために大切にしてきた取組です。日記に書いてくれた内容を、時には、学級通信に掲載して、クラスへの提案や学級会での話し合いにもつなげたり、クラスのみんなに紹介したりして、学級をよくしていくための活動にも役立ててきました。

だから、皆さんが、学校生活での出来事や日常の暮らしを「綴る(つづる)」ことによって、自らの生活をしっかり観察し、自分たちの生活を認識し、たくましく生きていく力を高めてほしいと思うのです。
何か心配なことがあるのか、弱々しい文字でのつぶやきが書かれた生活ノート、うれしいことがあったのか、はずんだ文字の生活ノート、何度も消したり書いたりした跡が残る生活ノート、消しゴムの消しカスがはさがっている生活ノート、好きなキャラクターのイラスト・・・などなど、「やりとり帳」の記述を通して、しっかりと君たちの生活を知り、応援しようと思います。

「書くことは考えること、考えることは生きること」というコトバがあります。
「ひとこと」日記」を書くというのは、表現や伝達の手段であることは間違いなく、伝えるための技術をみにつけることは、将来社会に出てからとても役立ちます。しかし「綴る」ことにはもうひとつ、だいじな役割があります。それは「認識」といいます。残念ながら、最初から作文が好きな人は、あまりいないかもしれません。それは難しいからです。自分の前にある「人・もの・できごと」にぴったりな単語をみつけ、次には単語どうしを結びつけ文にし、さらに組み合わせていくという、頭をフル回転しなければならない作業です。時には、できごとをよいととらえるか、悪いととらえるかなどという、価値判断もしなければなりません。自分の視点で書いているので、うそはかけません。鉛筆を進めるのは、大変な仕事です。
小さい頃、君たちは「話しことば」の中で生活しています。相手が目の前にいて、視線やしぐさ・表情なども伝達の手助けとなるため、多少コトバや言い方や文法がまちがっていても、おおよそ通じてしまいます。しかし「書きことば」ではそうはいきません。目の前に相手はおらず、頼りになるのは文だけなのです。だからこそ、必然的に対象をしっかりみつめ、掴(つか)もうとし、価値判断をすることになります。家族・友達・社会・自然などを題材として「綴る」なかで、君たちはしだいに「認識」を深めていきます。こういった「認識」を獲得する学習を基盤とし(あるいは並行して)、プレゼン発表の原稿やレポートを書いていくなら実生活に根差した、重みのあるものとなるはずです。飛躍的に認識の幅が広がる中学校のこの時期なのですから。

もうひとつ、書くことの基本は、身の周りのことを、あったことを、あったように、自分のことばで、です。時間軸に沿って、「○○でした」「○○しました」というふうに、過去形で書いていきます(展開的過去形表現といいます)。これがある程度できるようになってはじめて、前述のさまざまな機能を持った文章を書けるようになっていきます。

新しい『自主学習ノート』と『やりとり帳』を使った取組にを大切に、チャレンジしてみましょう。











☆38日目  席替えではなく、なかまづくり2(生徒への配布資料)
席替えではない。班づくりである。
 新班は、新しい級友と関わり、知り、
    共にがんばり合う仲間になるための
               取り組みなのだ
 なぜ,班をつくるのか。
(1)この時期、これまでの先輩たちの学級を見ていると,
 いくつかの仲良しなグループに分かれている様子が見られました。
 もちろん気が合うという理由でグループが形成されるのは自然なことで,学校生活を楽しく過ごしていくには大切なグループです。
(2)しかしグループの中だけの友人関係にとどまり、クラスの中で自分の思いを語ることが少なくなってくる心配もありました。
 さらには,人間関係の固定化により,「あの子は,いつもああだから」「きっと,あの子のせいにちがいない」といった決め付けや,「どうせ言っても変わらない」とあきらめて声をかけたりしない様子も見られることがありました。
(3)クラスはみんな一人一人にとって,お互いの人権が尊重され,安心して過ごせる場でないといけないことは言うまでもありません。
 みんなが充実した学校生活を送るためには,
 ①「自分らしく生活していきたい」と思う気持ちをお互いが尊重して,
 ②係や当番活動、委員会活動に積極的に取り組み、
 ③「班のひとり、クラスのひとりである」という意識を持って協力、行動し,そして
 ④それをみんなで認め合うということが必要です。
(4)班活動は,授業中はもちろん,掃除や給食、係の仕事など学校生活の様々な場面で大切にしなければいけません。その班活動を継続して取り組むことで,自分の気持ちを伝え,仲間の思いを受け止め,がんばり合う仲間になっていくことを、○中学校では大事にしてきました。
(5)○中学校の班づくり(仲間づくり)は
 ①「約束を守らない」「何度注意しても言うことを聞いてくれない」「人に嫌なことを言う」など,話のやりとりの中で,様々な衝突やトラブルが起こることも予想されますが、その時は、自分をごまかしたり,人のせいにしたりしないように,「私」を主    して,自分の気持ちを伝えよう。
 ②自分の気持ちを出せる班をめざそう。
 ③小さなことでも話し合おう。(言い合いなどが生じたときこそ,問題を解決していく    力を磨くチャンスと考えよう)
 ④相手の気持ちを深く聴こう。お互いを表面的な言動だけで判断するのではなく,納得がいかない友達の態度や様子に「何でなんだろう…」と疑問を持って終わるのではなく、粘り強くかかわる中で(班活動を行う中で),それまで抱え込んでいた不安や悩み・しんどさといったものを聞いたとき,「そうだったんだ」と,初めて友達の生活背景や言動に込められた思いを知ることはとても大切なことです。
  そして,そのことに共感し,一緒になって考えてくれる仲間の存在を感じたとき,
   「一緒にがんばり合っていこう」という学年の力はさらに深まっていきます。







☆37日目  通信のロゴづくりって何?
「通信のロゴ」って何ですか?に応えて。
 生徒らの発想やセンスはすばらしいものがたくさんあります。ロゴを募集し、ストックして、発出する学級活動資料(通信)に添付します。書いてくれた枚数分全部使わないといけませんね。











☆36日目   つらぬくこと こだわること 
 学級通信
一号については、年間・3年間をつらぬく指針がなくてはいけないと思います。また、通信の最終号でも、その内容に再掲示し「ふりかえり・まとめ」をせねばなりませんね。参照イメージのリクエストがありましたので、結構一方的なメッセージばかりで反省しますが、ご参考に。






☆35日目   学級通信第1号の発行に向けて
子どもどうしが「しんどい」ことや「つらい」ことを語り合い、また「がんばり」合える集団になっていほしいと多くの教師が願っています。だからこそ、教師自身も自分自身の「生い立ち」や関わってる人権課題を「自己開示」しなければならないと思います。「4月最初から「暗い話」はちょっとしたくない」と聞いたことがありますが、人権問題は決して「暗い話」ではありません。真剣な生き方に関わる自「深い話」ならば中学生をきっと受け止めると思っています。またその語る内容によって、最初に書く「進級にあたって」などの作文の中身が大きく異なってきます。表面的な「進級して頑張ります~!」ではなく、やはり4月、自分自身の課題を深く見つめていくところからスタートしていけたらと思います。また子どもが開示した(取り組もうとしている課題)をしっかり受けとめ、寄り添い、覚悟をもって学級経営を進めていきたいと思っています。
新年度準備はいろいろありますね。
メモ
(1)学級通信1号 +当面の日程表
(2)学級通信「ロゴ」づくり
(3)生活班による春休み報告会
  ①単に点検にならぬように、班で春休みのできごとを話題にしながら、回収したいです
(4)朝の会、帰りの会改善①自主的な自治的活動の一助として
(5)提出物について 保護者とつながるために
  ・学校で子どもたちがおこなっている(取り組んでいること)を知ってもらう
(6)日直のしごと全
(7)班係活動一覧
(8)班長選出アンケート→班長会
(9)立候補(学級・専門委員)届
(10)道はいつもひらかれている色紙
  (11)学級日誌(日直から日直へ)
(12)わたしはわたし(仲間を知るワークショップ)
(13)学級目標班会議WS
(14)最初の座席表
(15)自転車点検表 ①たかがされど
(16)誕生日原稿にお祝いメッセージ






☆34日目 今日は県立一般入試の結果発表の日。
 残念な結果となった生徒らは、事前につくった「進路計画」表をもとに、新たな道を進んでいくことになるのですが、こころが揺れ動き、なかなか覚悟が決まらない場合も多々あります。そんな時、生徒(保護者)の気持ちをしっかり聴くことがやっぱり大切ですね。進
路の決定は生徒たちにとって大変な作業です。特に、精神的、家庭的、経済的にハンディを負った生徒たちの気持ちを教員はどれだけ受け止められるかということ、それを受け止めた上で、的確に情報を伝え、考える場を提供することが重要です。そうすることで生徒は自ら選択し進路を決定していくことになります。

 子どもたちにとって多種多様な進学先が増えました。進路指導には、私たちも謙虚に、正しい進路情報を更新していかねばなりませんね。







☆33日目 元気が出る行事(体育会・文化祭)へ
 保護者から応援メッセージをいただく取組
おうちの方々からの子どもたちへのエールは、ちからがわいてきますね。当日より前に配布(お願い)し、2週間後くらいまで募り、「お便り」でかえします。

                   走り抜け!自分らしくせいいっぱい
 体育会・「子どもたちへのがんばりメッセージ」をありがとうございました。
○中学校は、子どもの成長を軸として、保護者・地域と学校がパートナーとして連携・協働し、互いに意見を出し合い、学び合う中で、地域の将来を担う人財の育成を図るとともに、地域社会とのつながりを深めていく、「地域とともにある学校づくり」をめざしています。
 いただいたメッセージの一部を紹介させていただきます。
○中学生ともなると、恥ずかしさから、なかなか本気を出しにくいものかと思っていましたが、皆、「真剣」に、「本気」を出し尽くしてる様子で胸が熱くなりました。(わが子も、筋肉痛に悩まされていま したが、それさえも「本気」「頑張り」の表れに感じられて、嬉しく思いました!)体育委員長の○○君の最後のコトバには本当に感激・感動しました。素晴らしい一日をありがとうございました。ここに 至るまでの先生方のご指導に感謝いたします。本当にありがとうございました。
○保護者観覧の体育会が開催できたことに感謝します。部活動で足の裏の皮が剥けてカットバンを貼った り、靴下を二枚履いたりして・・・、他の事はあまり言わないので、食事の時に「ポロッ」と言ってくれ る言葉で解ったり、「頑張っとるな~」と話したりしていました。中学校になりと、生徒がだんだんと 「主」になって動いて、成長を感じることができた初めての体育会でした。皆の一生懸命に頑張ってい て、親も頑張らんとな-と思いました。[みなさん頑張っておられますと思います。(_ _)PTA事務局)より]
○体育会に向けて、暑い中で先生方や子どもたちで毎日練習してきたことを聴いていました。「嵐の曲で体操をするんよ」って、少しネタばれしてくれたり、当日をとても楽しみにしていました。「リレーで 走るのが緊張する・・・」、「友だちが団長だから勝たせてあげたいんよ」って、早朝起きてランニングしたりまでしていました。子どものやる気と友だちを想う気持ちがとてもうれしかったです。最後の中学校の体育会は、私を幸せな気持ちにさせてくれました。暑い中、本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。
○中学生になって初めての体育会でしたが、とてもよくがんばっていたと思います。どの競技もほぼ全生 徒が出場する状況の中で、どの競技も白熱し、おもしろかったです。子どもは、自分の係の仕事も全うしていたようで、成長している姿にうれしくなりました。暑さのために、体調管理が難しい近年ですが、誰も大きなケガや体調不良になることなく遂行できて良かったです。
○久しぶりの中学校の体育会でした。子どもたちの人数も少なくなっており、寂しいかなと思いましたが、一人ひとりが頑張った様子もみることができ、何より、我が子がフル出場だったので、非常に充実 した、忙しい体育会を楽しませていただきました。毎日「足痛い」と、頑張ったかいもあり、この前まで小学生だった我が子も「ソーラン」を踊りきり、立派な○中生になったなあと嬉しく思いました。
 中学3年間、走りぬけておくれ!!






☆32日目 何を綴るのか。何のための「振り返り」「感想」なのか? 
ダルクさんとの出会い(例)

書くことは考えること 考えることは生きること

◎薬物乱用防止教室(人権集会「私らしく あなたらしく共に生きていくために」)の,生徒の「ふりかえり」を一部紹介します。
○お二人の話を聴いて,いろいろ辛い過去があって,薬物に手をつけてしまって,最後に言われたとおり,自分は薬物に手をつけたくないなと思いました。一人の方が 言われていた「良いウソをついて,相手をこまらせないようにしていた」というのに少し共感しました。依存というのは怖いことだし,回復するのにも時間がかかることが分かりました。
○自分の気持ちを日常の中で言えるようにしたい。薬を使わなくても「人生,楽しいことばかりでではない」ことを頭に入れて,辛いことも乗り越えて,命を大切にしていきたい。
○自分みたいに本音を言えない人がいたんだとびっくりした。一人ひとりに理由があって手を出しているんだと知り,僕は手をさしのべたくなった。今,お二人が,自分のことを素直に言えるのはすごいことだと思う。
○「自分みたいになるな」と自分を否定したことにとても驚いた。
○辛い,悲しいと思うことを一人で抱え込む,それから自分の人生が変わっていったということを聴いて,人間って全部を一人で抱え込んでしまうと「間違った道」を歩んでしまうこともあるんだと感じました。今の自分の生活をふりかえってみて,「どう生きていくか」をお話してくださったことを頭に入れ,過ごしたいと思いました。
○何か心配ごとや相談したいことがあれば,すぐに相談しようと思った。
○薬物はよくないし,やりたいと思わない。でも,自分が病んでいるときに誘われたらしてしまうと思ってしまった。もしも,病んでいる人がいたら,一緒にご飯を食べに行って,話を聴こうと思います。
○薬物以外でも,スマホなど普段いろんな人が使っているモノでも依存症になるから気をつけたい。
○自分も断るのが少し苦手なので,本当に嫌な時はしっかり断り,自分のやりたいことをやっていきたいです。
○今は,自分は絶対に関わることがないだろうと思っていたけど,以外と身近にあるから,人ごとでは済まされないなと思った。「一度のあやまちが,人生を大きく変 えてしまう依存をしてしまうと,一人では抜け出すことができない。周りの人がどんどん離れてしまう・・・。」この言葉に私は,薬物の怖さをあらためて感じ,すすめられても,断られるようになりたいと考えました。
○「ダルクにいても死んでしまう人がいる」というのを聴いて,びっくりした。薬物を一度やってしまうと,もう,後戻りができないことを知った。薬物で何もかも失うと聞いて衝撃的だった。薬物は絶対やらないと決めた。家族・友人を大切にしたいと思った。
○人に断れる自分になりたい。
○NOと言える人間関係をつくっていきたい。
○「他人事と思っている」という言葉を聞いて,もしかしたら,自分もそう思っているかもしれないと感じた。いつもの授業で習うのとは違い,言葉一つひとつに重み や現実味があり,その言葉が心に刻まれていくような気がした。孤立感などの負の 感情が精神的な理由だと知り,自分も気をつけなくては・・・と思った。
○僕は絶対やらないし,依存もしないと思っていた自分が心のどこかに居たのだと思います。ですが,今回のお話を聴いて,「絶対」なんてないんだとあらためて思いました。僕の人生の中で,今回の防止教室は一生消えない大事な1ページになった と思います。身近にある危険から目をそむけず,相手も自分にも優しくなれるようにしたいです。
○自分を大切に思ってくれている人がいるかもしれないから,その人たちとずっとか かわっていけるように,「薬物」は使わないようにしようと思った。親戚や友達が困っていたら,しっかり相談にのろうと思う。もし,自分が悩みをかかえていたら 友達を頼ろうと思った。「薬物」が日本からなくなってほしいと思った









☆31日目 何を綴るのか。何のための「振り返り」「感想」なのか? 
「ホームレス問題」学習での学び(例)

◎川元さんとの出会い・「ホームレス問題学習」での「ふりかえり」の一部を紹介します。
○家があって,家族がいるのに帰れないし,頼れないのはすごく悲しいことだなと思った。岡山で実際にみたことがなくて,完全に他人ごとだと思っていた。本当にそういう人たちがいて,支援する人たちがいるのを学んで,自分でも何か出来ること があるかもしれないと思った。
○ホームレスの方に対する見方・考え方が変わった。いろんな苦労や恐怖がある中で 生きていて,僕たちよりもずっとすごいんだろうなと思った。安心して暮らせるよ うな,そしてホームレスの方がいない世界を作っていきたいと思った。僕は,ホームレスの人を下に見るようなことはせず,困っている時は助け,支えあうようになりたいです。
○私はあまりテレビや新聞などをみないので,今,社会にどんな問題があるのか余り 知りません。だから,これからはニュースや新聞で,今,どんな社会問題があるのか知っていこうと思います。ホームレスの人に出会っても,軽蔑するのではなく,周りの人と同じように接します。あと,生きる意味も考えていきたいです。
○生きる意味について考えた。僕は前から「人は死ぬものであり、死にたいと思うのなら死ぬのも別にいい」と考えている。それに加えて、「死んでもいい」という考え方が嫌いだ。生きたいのか死にたいのかはっきりしない、その考えを嫌悪している。しかし,今回のことを学び、生きる意味についての見解も少し変化があった。僕は今まで都会で生活に充実している人ばかりみて考えていた。しかし、孤立し、社会全体から否定されてきた人たちのことを学び、「人の生死は、その人たちが決めることだ」と思った。「死んでもいい」と思っている人たちが今も、生命活動をしているのは「生きたい」という本能があるからだと思う。その人たちはその本能に気づいていないだけではないかと思う。僕たちにできるのは、声をかけ、社会と結びつけることで、本能を感じさせることだけだと思う。人間は薄情だが、あたたかい心をもっていてほしいと思った。根本的に「死ぬのは自由」という考えは変化 していないが、その上にある「死にたいと思うなら死ねばいい」という考えが、「一度、生きたい気持ちがないか考えてみるほうがいい」という考えぐらいは変化した。
○今の僕はすごくめぐまれているのだと思いました。家族は優しいし、友だちと会話することが出来ている。だがいつか自分もホームレスになるかわからない今の世の中で、「これから僕はどう生きていけるのだろう」という考えがまた深まりました。何回かの授業では、自分にみえている明るい未来以外もみせてくれたことに感謝しています。大人は「君たちの未来は明るい」「社会は苦しいけどすばらしい場所だ」と言われますが、僕は社会にでるのは今は不安です。本当の幸せとは何なのだろう。僕たちは暗い世界を歩まなければいけないのか。大人が敷いたレールの上を走らなければならないのか。僕に分からないけど、一日、一日をがんばって生きていこうと思いました。
○ホームレスへの偏見がすごい中で支援活動をしているのはすごいと思った。ホームレスになる理由はそれぞれあった。ただ命をつなぐだけでなく、生きる上で大切な人間関係・信頼を創ろうとしている川元さんはすごいと思った。ボランティア活動に参加してみたいなと思った。
○信頼関係を築くこと,生きる意味について考えた。人数調査では,たとえ国が出した結果だとしても簡単に信じず,自分の目で,耳で,見たり聞いたりすることが大切だと思った。これから私は,周りの友人・家族・先生らと話し合いながら,生きる意味を見つけていきたいと思う。本当に困ったときは正直に「助けて」と言って,まわりの人に頼っていこうと決めた。






☆30日目 進路公開(28日目)へ、つながる3年間の進路・生き方学習
 身近なひとに聴く(聞き取り)

1学期懇談資料 
 2024年7月20日~
1学年 保護者・生徒諸君へ
 1年生総合的な学習の時間 夏休み聞き取り課題
  
 身近なひとの「中学校時代」から学ぼう
  ~「進路」は「どう生きていくか」ということ。仲間と共に進路を切り拓こう~
                       への協力と子への励ましを!
 
 保護者の皆様におかれましては、本校教育活動に対して多大なご支援をいただきありがとうございます。
 さて、1年生は3年間の継続的な進路学習を進め、自分らしい能力や適性をもとにした進路実現をめざしていきたいと考えています。
 そこで、夏休みには「身近なひとの中学校時代」についての聞き取りのご協力をお願いしたいと考えています。2学期には聞き取りの発表会を行い、生き方(進路)についての学習をさらに深め、そこから進路やしごとについての正しい認識や望ましい職業観について深く学んでいきたいと考えています。
 これから自分の進路を切り拓いていく子どもに、身近な方から「生き方」についてさまざな経験を語ってもらいたいと思います。それによって進路に対する考え方や、職業観についての考えを学ぶことと思います。今回の「聞きとり」の協力をよろしくお願いします。
 
 具体的内容
1 提出期日 ○年8月30日(2学期始業の集いの日)
2 内容 《身近な方からの「聞き取り」の内容は》
 ①中学校でがんばっていたこと(部活動、稽古事や勉強など)
 ②自分にとって苦手だったことや苦労したこと。そしてその問題にどう向き合ったか。
  (克服しようとしたり、努力したり、折り合いをつけたことなど)
 ③自分を支えてくれた人々(身近なひとや友だちや仲間のこと)
 ④中学校時代を振り返って、中学生に応援メッセージ(願いや思い) 
 ⑤聞き取りを終えての感想
・生徒自身が、身近なひとの中学校時代についての「聞き取り」をし、まとめる。
・文章化したものを見てあげてください。事実の確認とともに、さらに多くの内容が付け加えられるかもしれません。       
・生徒自身が整理して、用紙に清書する。(完成)
・「聞き取り」をもとに、学級で報告発表会を行います。

◎そして、引き続いて、
1年生冬、「平和とは何だ~身近なところからの反戦・平和」
2年生夏、「はたらくって~身近なひとの生き様を知る~」、2年生冬「高校、進学、青春時代~ひたむきに・ひたすらに」
3年生夏、「進路決定にむけて、受験期をどうがんばったか」、3年生冬「個人答辞構想(案)」と、お家の方々と連携をしていきます。










☆30日目 3.11に、3.11を語る
その学年の全生徒たちの「総意」としての答辞の取組を以前に紹介しましたが、「いま・ここ」にあるコトについて、答辞や送辞では言及せねばならないと思います。折しも、13年前の出来事を過去の課題としてではなく、現在の課題としてそのことに触れ、そしてどう語るかはとても大切です。気仙沼市立階上中学校での梶原さんの卒業式答辞に触れるこはとても意味あることだと思います。
《 本日は未曽有の大震災の傷も癒えないさなか,私たちのために卒業式を挙行していただき,ありがとうございます。 ちょうど十日前の三月十二日。春を思わせる暖かな日でした。 私たちは,そのキラキラ光る日差しの中を,希望に胸を膨らませ,通い慣れたこの学 舎を,五十七名揃って巣立つはずでした。 前日の十一日。一足早く渡された思い出のたくさん詰まったアルバムを開き,十数時 間後の卒業式に思いを馳せた友もいたことでしょう。「東日本大震災」と名付けられる 天変地異が起こるとも知らずに…。 階上中学校といえば「防災教育」といわれ,内外から高く評価され,十分な訓練もし ていた私たちでした。しかし,自然の猛威の前には,人間の力はあまりにも無力で,私 たちから大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というには,むごす ぎるものでした。つらくて,悔しくてたまりません。 時計の針は十四時四十六分を指したままです。でも時は確実に流れています。生かさ れた者として,顔を上げ,常に思いやりの心を持ち,強く,正しく,たくましく生きて いかなければなりません。 命の重さを知るには大きすぎる代償でした。しかし,苦境にあっても,天を恨まず, 運命に耐え,助け合って生きていくことが,これからの私たちの使命です。 私たちは今,それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。どこにいても,何をして いようとも,この地で,仲間と共有した時を忘れず,宝物として生きていきます。 後輩の皆さん,階上中学校で過ごす「あたりまえ」に思える日々や友達が,いかに貴 重なものかを考え,いとおしんで過ごしてください。先生方,親身のご指導,ありがと うございました。先生方が,いかに私たちを思ってくださっていたか,今になってよく 分かります。地域の皆さん,これまで様々なご支援をいただき,ありがとうございまし た。これからもよろしくお願いいたします。 お父さん,お母さん,家族の皆さん,これから私たちが歩んでいく姿を見守っていて ください。必ず,よき社会人になります。 私は,この階上中学校の生徒でいられたことを誇りに思います。 最後に,本当に,本当に,ありがとうございました。 平成二十三年三月二十二日 第六十四回卒業生代表 梶原 裕太》










☆29日目 「落書きや掲示物のいたずら」をどう受けとめる?
 もちろん、してしまった本人を特定して指導することが前提ですが、学年集団(仲間)全体の課題として捉えて、学年集会、または全校集会を行う視座が必要だと思います。(集会には学級委員や生徒会役員が語る場面をつくることが大切ですね)
少し古い資料ですが、学年通信として配布し、クラスの指導で参考した文書を紹介します。
【◎「人権と共生の時代」の中で。
 それは与えられるものではありません。譲ることのできない“人権”と“共生社会”をつくるために、私たちは中学校生活の中で、一人ひとりを「大切」にして、「どう生きていくのか」考えていかなければなりません。今週は、残念ながら掲示物への侵害がありました。そのことについてあらためて一緒に考えてほしいと思います。
 「掲示物の「目に穴をあける」という行為。例え、それが新聞やポスターだとしても、とても嫌な行為です。穴があいた人物の目が私に訴えてきます。「同じようにされたら、あなたはどうする?」と。『自分だったらどうする?』を心の中にいつも持ち続けることが、お互いの「人権」を大切にすることになるのです。やる人は、軽い気持ちかもしれません。でも「軽い気持ちだから許される」…ということはありません。いや、軽い気持ちでやるようになってしまった…ということは、とても大変なことなのです。初めての時、「やろう」とする時、心の片隅にある良心がブレーキをかけたはず。ほんのちょっとでも「ためらい」があったはずなのです。そして、何度も繰り返すうちに、平気になるのです。「良心、一人ひとりが大切」というブレーキを大切にしてほしいと思います。初めての時、ためらうようなことは、きっと「してはいけないこと」なのです。】
 様々な指導をしても、本人が名乗ってこない場合、落書きはどのようにして消しますか?教職員が消さなくても、必ずその取組を大切に受けとめてくれる生徒たちはいます。本校でも5月頃に廊下の手すりに落書きがあり、その落書きを消す作業に参加してくれた生徒はなんと10人以上。次の日はクラスでその旨を報告。「落書きを許さない学級風土」が育まれていきます。








☆28日目 卒業を前に「進路公開」 
 今日と明日は、県立一般入学者選抜の日。卒業を目の前に最後の学級活動の準備をしている担任の先生らとの会話の中で・・・。
「進路公開」というのは、自らの進路(多くは高校進学や将来の夢や目標)をクラスの仲間の前で公開していくことです。
発表する子が、自分の暮らしをみつめ、自分をとりまく人々の願いを受けとめ、自分自身の可能性を高めるための進路を求めたことを語り、その発表を聞く側の子たちは、発表した子の暮らしに思いを馳せながら、強い声援を送る」そんな時間を、卒業式前にしっかりと取りたいですね。
 だから、「進路公開」はお互いの暮らしを知らない者どうしの学級集団では成立しないとりくみとも言えます。すなわち「進路公開」の時間が大事なんじゃなくて、それまですごしてきた日々で、どれだけ本気で隣に座っている仲間のことを知ってきたかが必要なのです。
「仲間の語りを聴く・返す学級風土」とは、言い換えれば「クラスの仲間の語りに一生懸命に真剣に返していく文化」を作っていくことが「真のつながりのある学級集団づくり」ということです。本校でも「聞き取り課題の報告会」や、発達特性について考え、ゲストティーチャーからの提案で、自分の苦手なことや応援してほしいことを語り合う活動をおこないました。
「自分を見つめ、綴り、語る」取組は実はますます重要だと考えます。
 







☆27日目 東備学ぶ会で何をしている?
人権教育実践を中心に様々な教育課題について学習しています。2024年2月の学習会の内容を紹介します。

□特別支援教育と人権教育2「十八歳への進路保障」
障害者の権利条約の第14条では、「『障害に基づく差別』とは、障害に基づくあらゆる区別、排除は制限であり、『障害に基づく差別』には、合理的配慮を行わないこと」とあります。「共に学ぶ」「自立」とはどういうことか。
◎1/20は、通常学級の在籍する児童にかかわって小学校の先生からの報告をもとに、共生・合理的配慮について具体的な実践から考えていくことができました。
◎2/17は、地元の定時制高校の先生から、卒業生徒の進路保障に関する報告をもとに、小・中・高の連携や自立支援のあり方について考えたいと思います。
これまでも東備学ぶ会では、特別支援教育についてたくさん論議してきました。例えば、「子どもにとって、多人数の教室で、静かに座っているだけで子どもどうしのつながりが弱いような気がする。居ることが「共生」なのか悩む」「教室の秩序を乱してしまう子どもを「特別な場に連れ出す」ことは、合理的配慮なのかなあ」という声。また、クールダウンする部屋や、個別学習を要求する子どもに応えることは、合理的配慮か分離なのか。子どもがいじめや差別に合うことを心配して、保護者が特別支援学校や普通学級を希望する状況があるかを学校は把握できているか。発達特性が早期に発見され、早期治療が受けてもらうことが学校の役割なのか・・・などなど。日々の葛藤を受けて、今回の学習会は精神論や理念でなく、合理的配慮や共生について、具体的な日々の教育実践(現在の私たちの学校教育の内実)を問いながら、教育の本質に深くかかわる問題、「子どもの成長、学校の使命とは何か」という、この古くて新しい問いに対して、一緒に考えていけたらと思っています。
 








☆26日目 「地域を歩く・知る・学ぶ」取組は、東備地域で学び合う先生たちの会で開催しました。
 「東備学ぶ会」の学習会の案内にある文書を紹介します。
 東備学ぶ会は12年目を迎えました。本会は、2012年の第64回全国人権・同和教育研究大会/岡山大会開催を機に、≪人権教育の内実をつくり≫さらに、「豊かな」教育実践を創るために、「同和教育の財産」を大切にした学習会(研修会)を行なっています。
「同和教育」という名称が、「人権教育」と置き換えられ月日は経ちましたが、私たちは同和教育の一貫したテーマ「差別の現実から深く学ぶ」ことを活動の原点として考えています。同和教育を進めてきた諸先輩たちは、その時々に「きょうも机にあの子がいない」(長欠・不就学の問題)、「ひとりの落ちこぼれも出すな」(学力の問題)、「しんどい子を学級経営の中心に」(仲間づくり)などのかたちで問題提起を行いながら、日本における教育の前進のために数々の先駆的な実践を積み重ね、大きな成果をあげてきました。そしてその中で確立されてきた①差別の現実から深く学ぶ。②教育と運動を結合する。③弱い立場にある子どもを中心とする生活を通した仲間づくりをする。④差別と自己とのかかわりを大切にする。⑤教師・指導者の自己変革を大切にする。この五つの原則は、今日の教育課題を≪切り結んでいく≫ための重要な原則と重なります。同和教育と人権教育の関係は対立的ものでもなく、同和教育が人権教育に変わったわけでもありません。「普遍から個別へ」「個別から普遍へ」という不可分の関係として考えることが大切だと思います。同和教育で積み上げてきた豊かな教育内容と実践は、国際的な人権教育で提起されてきた内容と完全に一致していると確信をもっています。
多忙な毎日ですが、私たち自身が〈学び合うちから〉を高めることは、子どもたちの〈豊かなそだち〉へつながっていきます。一緒に語り合いましょう。学び合いましょう。











☆25日目 地域を歩く・知る・学ぶ
 鶴島フィールドワークへ、日生、東備地域の先生方と一緒に行ってきました。この島は浦上四番崩れで大弾圧を受け捕らえられた3400人のうち117人が流刑され開拓を強制されながら改宗を迫られ、禁教が解かれるまでの三年半の間に、死者18名、改宗者55名を出す過酷な仕打ちを受けた地です。その後、私有地となり、ご家族がいなくなってから長い間、無人島となっていたため、日生港から、釣船に乗せていただき、島に着くことができました。伸び放題の木々の間を案内していただき、井戸の跡や石碑を見て、その後、18人の方のお墓と慰霊碑、そして真っ白なマリア像がある島の南側の丘陵地へたどり着きました。また、高台の上には改宗を迫った祠、そこに続く長い石段(強制労働で作らさられたものでしょう)を歩いて桟橋へ帰り、岐路につきました。地域の文化や人々にどもたちが出会う豊かな機会を創っていくことは、これからますます大切になっていきますね。教材化したなあ。 

追記:日生諸島(岡山県備前市)の鶴(つる)島にキリシタン遺跡
 明冶政府の外来思想排斥政策は、多くのキリスト教信者を心身ともに苦しめました。岡山城下から約50km離れた無人島「鶴島」に送られたキリシタンたち(長崎県浦上キリシタン教徒117名)は、自由な身になるまでの3ヶ年半をこの島で過ごしましましたが、すしづめ状態の長屋、土地の開墾、説教聴問などに耐えかね、改宗せざるえない人もいたといいます。この島は、草地で開墾するには適しており、大豆、麦、さつま芋などが作られていましたが、それらの作物を口にすることは許されていませんでした。この島で亡くなった18名のキリシタンたちは、島の南東の丘斜面に葬られています。
 また、この島には、浦上の「四番崩れ」で、長崎から流された岩永マキさんがいました。彼女は、浦上に帰ったあと、神父をたすけ、看護婦、孤児院、十字会など社会奉仕の中心人物となりました。
1969年、岡山市のカトリック教徒により、殉教百年祭が盛大に行われ、殉教者碑・十字架などの建立とともに、めい福が祈られ、「殉教の島」となっています。





☆24日目 授業での複数指導(TTや支援員との協働連携)支援体制での効果的な取組は??     
1 複数指導・支援の多様な活動例を参考に,効果的なさらなる授業づくりを。
(1)授業準備
 ①個々の生徒の実態や課題(個別の指導計画)を加味した授業づくり
 ②アイデアを出し合いながら、共同での授業計画の練り合い
 ③個々の教師の個性・特性を生かした担当や役割分担
 ④教材・教具の準備
(2)授業の中で
 ①教え合い・学び合いの実践(★1~★6参考)
   ・学習活動への意欲付け ・個人やグループ別指導場面での役割分担
 ・発達特性を踏まえた上での、課題への理解を支援するための補足や手本の提示、手立て、モデリング
 ②事前に検討した個別(抽出)指導の実施
 ③定性的評価・・・授業中の抽出生徒への指導・支援・見取り
    ・評価対象者を分担し細かく見取り、多面的な視点からの評価
 ④状況に応じた生徒の抽出指導 けがへの対応、事故の防止の確認
 ⑤教材・教具の出し入れ(提示)
   ⑥小テストの採点や提出物の確認
  
(3)授業後
 ①話し合いによる授業全体への客観的評価
 ②多面的な視点から、生徒一人一人についての情報交換と評価
 ③授業計画の見直しなどの協力
 
2 実践していくために 
 校内研修の中で
(1)これまで取り組んできた 「教え合い・学び合い」の授業とは子ども同士が学習課題を媒介にしてつながり,「聞き合い」「伝え合い」等の互恵的な人間関係の中で「学び」を深めていく学習方法である。ペアやグループの形で活動することが多いが,子ども同士の関わり合いの中で個々の「学び」を深めていくことが大切となる。学び合いの授業で教師は,学び合いの場を設定したり,子ども同士の学び合いが促進するような援助的な関わりを重視し,直接「教える」という行為を控え,子どもの「学び」の実態に合わせて授業を展開することとなる。
 (2) 聴き合う場としてのデザイン
 学び合いでは,「聴く」ことが重視されており,3から4人のグループでの指導や話し合いで行われる。子どもだけでなく教師を含めた集団の誰もが,顔を上げるだけで  誰かと視線を合わせて話を聴くことができる。教師は子ども一人一人の表情をつぶさに見て,非言語の情報を読んだりつぶやきを拾ったりする。
 
2 授業づくり
 (1)教師は,落ち着いた声の大きさや調子で,授業を始める。その教師の穏やかな態度やしぐさに合わせて,子どもの気持ちの高ぶりが収まり,休み時間と学習時間の区別が自然と付けられる。
(2)教師は,終始,声の大きさを抑え,柔らかな口調で授業を展開していく。教室には,落ち着いた雰囲気ができ,その中で生まれる子どものつぶやきを教師が捉える。教師  自身が「聴くこと」を大切にする姿勢がモデルとなり,子どもも「聴くこと」のよさを意識し,友達のつぶやきにも耳を傾ける「聴き合う」関係がつくられる。
 (3) 学び合いは,グループで行われる。しかし,必ずしも,意見をまとめ合ったり話しあったりすることが目的のグループ学習ではない。一人一人が自分の学びを進める時      にも机を付ける。分からない時,困った時,「分からない」「教えて」という言葉を自 然に口に出すことができる。そしてそれを受け止められる距離,その中でそれぞれの    学びを進め,互いに学び合うのである。2人組では,学びに広がりを生み出しにくい。3人では,2人と1人に分かれがちである。5人以上になると,頭を突き合わせるこ    とが難しくなる。4人組は,ある程度の意見の多様さをもちつつ,机を付け合うことで,関わり合いが自然に生まれ,親密な距離感の中で,それぞれの学びを進行させる ことができる人数である。人間関係がまだ十分につくられていない時期や学級の実態によっては,簡単な意見や感想をペアで交換することもある。
(4) 子どもを学びに引き込む魅力のある課題は,課題を媒介とした関わり合いを自然に生み,子どもと子どもをつなぐ役割も果たす。「どう思う?」「分かる?」そんなつぶや    きから自然と子どもがつながり始める。子どもの実生活につながる魅力的な課題づくりや子どもと学習課題を結び付ける具体物の提示等で課題の設定を工夫し,子どもを    学びへと引き込む。
佐藤(2009)の「トランポリンモデル」
*子どもを学びのステージに乗せることを「トランポリンに乗せる」と表現する。学びに入りにくい子どもの多くは学力が低位で,トランポリンに乗りにくい子どもである。同じトランポリンに乗っていれば学力の高位の子どもの跳躍によって,トランポリンの揺れが起き,低位の子どもも一緒に高い学びへの跳躍を始める。授業前半で「最低限学ばせたいレベル」まで低位の子どもを引き上げ,その上で,後半はさらに高い課題の設定をして高位の子どもの跳躍を大きくさせ,全体の子どもの学習レベルを引き上げる。
 
3 複数指導の役割・多様性
(1)子どもと子どもをつなぐために【実践例】
① 安心感のある場としてのデザイン
・突っ伏したままで机を動かす気配のない子どもがいると,教師は机をそっとグループの形へと動かす。突っ伏していても学級の一員として子どもを尊重しているという教  師のメッセージは重要。
・教室に居ない子どもの机を隣の席の子どもがグループの形に動かす。突っ伏している子どもをそっと起こして仲間に入れる。そんな関わりが子どもの中にも見える。
・子どもを学びへとつなげる教師の関わりは,教室の中だけではない。廊下には,常に教師がいて,教室に入れない子どもが教室へと足を向けるまで見守ったり,必要に応  じて教室に入って子どもの援助をしたりする。
・遅刻生徒に対しては職員室で手続きを促し、教室(授業)まで送っていく。
② 自由な学びの場としてのデザイン
・突っ伏したままで授業に参加していないと見える子どもが,実は,友達の発言を聴き,発言者の方を見ていることが多い。子どもは教室に居さえすれば学びに入るきっかけ
を自分でつかむ。「全ての子どもの学びを保障する」ために授業規律がある。学びに参加できていない子どもの姿を丸ごと受け止めることで,個の学びを保障している。  学びに入らせるために働きかけたり促したりすることはあっても,教師が押し付ける指導はない。反面,人と距離を置くことが学び合いを妨げることにつながると考え,  机と机はきちんと付ける,壁をつくらないように筆箱や教科書を人と人の間に置かない,といった指導・支援を進める。
(2) 指導能力の育成につながる生徒指導の三つの留意点に重なること
 ア 子どもに自己存在感を与えること
 聴き合うことを重視した場づくりは,子ども同士が,目を見合わせ,表情を読み合い,言葉を交わし合い,互いの存在を感じ合うことを可能にする。人との関わり合いの中で,自分の存在を確認できる場である。また,一人一人の「そうせざるを得ない」気持ちに寄り添い,子どもの姿を丸ごと受け止めようとする教師の姿は,自分たちが大切にされていて,価値のある存在であることを子どもに伝えている。
 イ 共感的な人間関係を育成すること
 学び合いでは,親密な距離感の中で,「分からない」と言って支え合うことが許され,一緒に学び合える仲間がいる。そこでは,「分からない」と言える学級の雰囲気をつくるのは,教師ではなく子どもである。共に学ぶ仲間に対する共感的な気持ちや態度は,仲間との関わりの中で,自分自身が実感して繰り返し経験していくことで育っている。
 ウ 自己決定の場を与え自己の可能性の開発を援助すること
 学び合いのグループは,一人一人の学びを進めつつ,課題という媒介を通して関わり合いが生まれる場である。だからこそ,教師が話題を焦点化したり効率的な学びを進めたりするために行う「発問」よりも,子どもの学び合いを自然に引き起こす「課題の設定」が重要になってくる。そして,グループで課題の解決に向けて取り組む中で,自分の学びを進めたり,つながりを求めたりする自由がある。このことは,学び合いの場が自由な場であり,自己決定のできる場として保障されていることを意味している。
 
(3)子どもの関わり合いを促進するために
「居場所」となる場がデザインされた子どもの間には,自然と関わり合いが生まれる。  しかし,この関わり合いは,子どもなりの関わり合い方である。そもそも,人と関わ    ることを苦手としている子ども同士の関わり合いが更に進むための手だては?
★1 分からない子どもへ寄り添う
多くの学校では,グループ活動している時に学んでいない子どもに対して,グループに入って他の子どもと同じように学ぶことを指示する。しかし,これまでの実践研究  校では,学びに入ろうとしない子どもには,その気持ちを理解することから始める。教師は学びに入ろうとしない子どもは,学習面でのつまずきがあり,困っている子どもと捉えているからである。そこで教師は,授業が分からないという気持ちに寄り添い,受け止めながら,「分からないから,教えて」と他の子どもに聞くことを教える。
安心して「分からないから,教えて」と言えるようにするために,実践校には学校全体で決められた授業の声かけ(ルール例)がある。この声かけによって,子どもは自  分から学びに入ることができるようになっている。例えば,一人で困っている子どもは,「分からないから,教えて」とグループのメンバーに頼るように教師が教える。
 「これってどうするん?」「分からないから教えて」を言えるための声かけルール
  ○ 人の話をよく聴くこと
  ○ 分からないことは「分からない」と言うこと
  ○ 困った時は「どうするん」と自分から言うこと
  ○ 頼られた時はしっかり対応(誠実)に応えること課題が分からずに学びに入れない子どもには,そっと寄り添って課題を具体的に伝え,まず課題を理解させ,それから,課題という媒介を通してグループのメンバーに頼ることを教える。こうした教師の関わりによって,子どもは,困った時には他の子を頼るることを覚え,自分から依存できる力を育もてると考えられる。その結果,学力が低位な子どもでも,グループのメンバーに依存することで,メンバーが援助する関わりが生まれている。そして,教師は本当に個別の援助が必要な子どもに関わることが可能になる。
 
★2 子どもの状態を丁寧に見取る
 教師は授業中,常に子どもの状態を丁寧に見取る。見取るポイントは三つある。一つ目は身体からの見取りである。子どもの状態を目の動きや表情,手の動き,仕草な  どから見取っている。二つ目は,つまずきやつぶやきからの見取りである。つまずいている様子はないか,分からないことを声に出してつぶやいていないかを見取っている。三つ目は子どものつながりからの見取りである。子どもは,課題とつながっているか,子ども同士がつながっているか,子どもと教師がつながっているか,さらに,一人一人の子どもと集団がつながっているかを見取っている。こうした見取りは,子どもがグループで活動している時だけでなく,教師が全体の場で発問している時や子どもの発言を聞く時などにおいて常に行われている。そして,見取りの結果から,教師は,次に何をすればよいか判断している。
 
★3 子どもを信じて待つ
 学びに入っていない子どもがいても,丁寧な見取りの結果,学びに入りそうな時には,あえて声をかけずに,子どもが自分から学びに入るのを待つ。一見すると,教師は何もせず,子どもが偶然学びに入ったようにも見えるが,それまでの教師の見取りを追っていくと,そこには,あえて何もせずに待っている教師の姿がある。ある教科の授業中におけるグループでの活動で,学びに入らず,突っ伏していた子どもがいた。教師は見取りを行った結果,直接その子どもに声をかけず,学びに入るのを待つ方を選択した。その後,グループでの学び合いが進む中で,その子どもは身体を起こして自分から学びに入っていった。教師が「待つ」ことは,他にも様々な場面で重要である。グループで活動している時,子ども同士の学び合いがすぐに進まなくても,あえて声をかけずに待つ。子どもが学びに入り,学び合いが起きるまでの時間を保障しているのである。また,学び合いが始まっている時は,学び合いが十分に進むまで待つ。学び合いが始まっているにも関わらず,時間を理由に学び合いを止めるようなことはしない。むしろ,子どもの学び合いの状態に合わせて,柔軟に授業の進め方を調整している。こうした教師の「待つ」姿勢によって,子ども同士の学び合いが起き,関わり合いが主体的に行われる。さらに,全体の場で子どもを指名する時にも,教師は,その子どもが発言するまで待っている。どんなに時間がかかっても,子どもの発言を待ち続ける。ここで教師が望んでいるのは,正答や素晴らしい意見ではない。その子どもが自分から発言することである。教師は,子どもの発言をうなずきながら聞き,受け止める。
 
★4 学び合いが起きない時は,戻す
 教師は授業中,常に子どもの状態や子どもと集団の関わりを見取り,関わりが起きそうなら待つことをしているが,子どもの学びが進まなかったり,学び合いが起きないない時には,一旦グループでの活動を止めて,課題を全体に戻す。そして,課題を丁寧に確認したり,課題の提示の仕方を工夫したりして,改めてグループでの活動を始める。学び合いが起きず進まない状態を見取り,素早く戻すことで,子どもが新たな学びに入れるようにしている。
 
★5 子ども同士をつなぐ
 学びに入っている子どもが,教師に質問した時,教師は答えるのではなく,グループの他の子どもにその質問をつなぐ。教師は子どもAからの質問に対して,正解を伝えることも,ヒントを出すこともせず,同じグループの子どもB,子どもCにつなげる。子どもAの最初の質問を教師がつなげることにより,学び合いが起きた場面である。こうした教師のつなぐという関わりの中で,子ども同士がつながり,子ども同士の関わり合いが生まれてくる。また,教師がつなぐ先を変えて見せることで,子どもは誰とでもつながる機会を与えられるとともに,それぞれの子どもとのつながり方が分かり,次回から誰と,どうつながるかを自己決定するようになる。
 さらに,子ども同士をつなぐことは全体の場でも行われている。多くの学校では,一斉授業の中で教師が発問し,子どもから何らかの回答があると,「そうだね」「よく分かったね」と返すことが多い。しかし,実践では,教師が発問し,子どもから発言があった時,その子どもに返さず,他の子どもに「今の発言についてどう思った」「もう一度,話してみて」とつないでいく。このように,教師が子どもの発言を直接他の子どもにつなぐことで,グループで活動していない時も,子ども同士の学び合いを意図的に起こしている。この「教師が,子どもへ発問し,子どもから返ってきた発言を他の子どもへつないでいく」ことを,実践校では「一往復半」と呼んでいる。
 ここで,子どもの発言が他の子どもに聞こえなかった場合は,もう一度発言させるが,教師自身は復唱をしない。発言する子どもに「もう少し大きな声で」という指示もしない。学級全体に対して「聴くこと」に集中するように指示する。子どもが互いの発言を集中して聴くことで,子ども同士が自然につながり,他の子どもの発言を尊重するようになる。
 
★5 教師は「教える」ことに終始せず,常に子どもの「学び」を援助する立場
   授業での教師の子どもに対する関わりの大部分は,教師が学習を「指導する」視点でなく,子どもの個の学びや集団による学び合いを「援助する」視点を大切にしたい。丁寧に子どもの状態や子ども同士の関わりの状態を見取り,分からなくても依存すれば学び合いに入れることを教え,学び合いに入るのを待ち,学び合いが起きないようなら「戻す」ことをしている。そして,学び合いがさらに促進するように,「つなぐ」ことを丁寧に行っている。こうした教師の関わりは,子どもの授業における学び合いを促進すると同時に,人間関係の希薄化が問題視される子どもをつなぎ,関わり合いを生む機会を提供している。この関わり合いの中で,子どもは,依存してもよいということ,誰とどうつながるかを自由に決められるということを知りながら人と関わる力を身に付けている。このことは,共感的な人間関係を育むとともに,選択の自由などの自己決定のできる場が保障されていると言える。よって,子どもの関わり合いを促進することは,よりよい人間関係づくりやコミュニケーション能力を育成する生徒指導を行うことであり,子どもの自己実現の基礎となる自己指導能力を育んでいく生徒指導となっている。
 
★6 授業者(複数指導者)の振り返り〈見取り〉
○分からない子どもが「分からないから,教えて」と周りに援助を求めていたか?○援助の求めに応じてくれる雰囲気がグループ・学級全体にあったのか?その状況 はどうであったのか?
○「訊かれた(援助を求められた)子どきもが,訊いた子どもの分からなさに寄り添って丁寧に説明できていたか?
○教師は,学びから逃避しようとする子どもをグループにつないでいく関わりができていたのか?
○子ども同士の学び合いの時間は十分に確保されていたのか?
○教師のグループの学び合いを見取る立ち位置は適切であったか?
○グループでの学び合いにするタイミングやねらいは適切であったか?
○グループでの学び合いを終えるタイミングはどうであったか?
○それを促進する教師の援助者としての関わりが有効であったか?
  引用・参考文献
  ・平成22・23年度岡山県総合教育センター所員研究(共同研究;生徒指導)「学び合いを促進する教師の関わりについての研究-なぜ,あの子が学びに入れたのかを探る-」
  ・ 文部科学省(2011)『平成22年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」』
  ・文部科学省(2010)『生徒指導提要』,p.1
  ・佐藤曉(2009)『子どもも教師も元気が出る授業づくりの実践ライブ』学研,p.178
  ・佐藤曉・守田暁美(2009)『子どもをつなぐ学級づくり』東洋館出版
  ・新学習指導要領・生きる力:文部科学省(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/index.html)







☆23日目 新年度教育課程の編成の中で家庭訪問の意義をあらためて
 家庭生活と学校をつなぐために同和教育において一貫して大切にされてきたものです。1つの方法であるだけでなく、そこに同和教育の精神が集約されています。
 子どもを理解するためには保護者を理解することが必要です。家庭での親との関係が子どもの精神状態やものの考え方や感じ方をかたちづくっていきます。教師は教室にいる子どもを相手に教科指導や生活指導をしていますが、家庭での親と子どもの関係を把握したときに、その指導にこもる思いは強くなると思います。子どもと対するとき、教員が保護者から信頼を得ているかどうかは決定的に重要です。保護者はどんなふうに働き、どんな思いや期待をもって子どもを育てているのか。生活が厳しければ厳しいほど、保護者が誇りを失っていればいるほど、心を開いて教員と話すのは難しくなりやすいです。家庭訪問も回数を重ねてることとなります。保護者自身が自らの生き方に問題を感じていたり、乗り越えられない問題をかかえていたりする場合には、その保護者の精神状態は子どもにさまざまな影響を与えます。そのような保護者のかかえている問題を聞き取るという行為は、教師にとって、自らの生き方を省みる機会を提供するものです。「差別の現実から深く学ぶ」というスローガンのもとに、同和教育では家庭訪問による教師と保護者とつながりを教育実践の重要な過程とみなしてきたのです。
 子どもの言動が落ち着かなかったり、荒れたりしているとき、その原因や理由を本人に聞いてもわからない場合もあります。そんな時は行くのです。電話ではありません。家庭を訪問し保護者と語り合いましょう。その際、できごとだけを伝えるのではなく、指導の内容やそのときの教員の願いやおもいをしっかり伝えましょう。問題行動を起こしてしまった子どもの保護者の多くは、子どもの教育について深く悩んだり不安をもったりしている場合があります。そんな保護者に「家庭でよく話をしてください」という一方的な気持ちで連絡しても保護者との距離は縮まりません。だから問題を伝えるだけでなく、良いところやがんばっているところも伝えましょう。「一緒に手を取り合って子どもを育てていきましょう」というメッセージを保護者に伝え続けていくことで保護者との関係は変化していきます。つい子どもにあたってしまうしかない親のしんどさ、悩みを誰にも言えず一人で悩む親の姿など、だんだんと語っていく中で子どもや保護者のくらしや願いが見えてきます。「今の親の感覚はどうなっとるん」「あたりまえの親ならこうじゃろ」と保護者と距離を置くのではなく、しんどさをありのままに語り合える関係をつくりましょう。「この先生は子どものことを一緒に考えてくれる」ということが伝われば、少しずつ保護者とのつながり、子どもとのつながりが深まっていきます。
 







☆22日目 コの字の席学習スタイル
 先日の校内公開授業で、2年生の深い学びを創出したひとつである、コの字型の席について、「学びの共同体」に関する佐藤学さんの著書からいくつか挙げてみます。


○授業改革って
 (1)教職員自身が非力であることを自覚すること。自分の非力を見せ合う中で謙虚に授業 改革に取り組もう。
 (2)研修は他人のためにおこなうのではなく、教職員である自分自身のためにおこなう。 ひいては生徒たちのためになるという考えに立つこと。
 (3)いわゆる「うまい授業」をしようと思わないこと。たとえ「ぶざまな授業」であって も生徒たちと誠実に向き合う授業を志向しよう。指導案どおりに進行する授業がよい のではなく、生徒が自分で考え、おおいに戸惑いながら進行する授業をめざそう。          

○授業改革のための研究授業の改革
 (1)一般的に従来の研究授業(授業の研修)の反省点として、①形式性を重視することで 研究授業としておこなうことが、一人ひとりの日常の授業にいきてこないこと。②授業 を見る視点が、所定の「仮説」に限定され、それ以外の授業の見方が制約されてしまう 点があげられる事がある。そこで本校の研究授業を以下の方法・方向性を検討しながら 取り組んでいきたい。
①授業をみて気づいたこと・考えたこと・学んだことを対等に、自由に発言する。一般論 や理論の紹介ではなく事実に即してコメントを出しあう。
②授業のコメントにおいて正答は無い。正否、優劣を評定することが目的ではない。授業 という複合的な事実を見る目を広げ、深めていくことが目的であり、自分と異なった意 見に触れ、その根拠を確かめつつ、自分の理解を深め、授業という複雑で奥行きのある 実体への理解へ近づいていく終わりなき課程であることを自覚する。
③教材の是非や教え方の是非は100とおりの正解がある。しかしその授業の進展における教職員の姿勢・願いや、生徒の発するメッセージの受け止め方はおそらく1とおりし かない。生徒一人ひとりを注意深く観察しながら,具体的な作業を提起して学びの展開 を触発し,多様な発見や意見の交流を組織し,学びの活動が豊かで深い経験になるよう に様々な働きかけを行うのである。「交わり」「つながり」を生み出す活動を,教職員 の仕事の中軸に構成する。
 (2)研究授業の推進に向けて
①授業の上手下手は問わない。授業の巧拙は「生まれつき」であることを自覚し、「自分らしいいい授業」をめざす。
②授業公開にあたっては、事前に形式的な内容に多くのエネルギーを注がない。事後の研究会(校内研修)を充実させる。「やって」「おわった」という充実感だけを求めるも のになりがちだった研究授業。事前に時間をかける必要性はない。事後の検討にたっぷり時間をかける。授業の良し悪しを議論するのではなく、授業の「難しさ」と「おもし ろさ」を共有することこそが授業の研修の目的である。いつも生徒の学びの具体的な姿を話し合いの中で浮き上がらせることを研修で求めていく。
③教職員の発問や教材の解釈についてよりも生徒の学 びの具体的な様相と教職員のそれへの対応を中心に話し合う。
④多様な教育の考え方と多様な経験を備えた教職員たちが、同じ授業の事例と観察と批評を通して、教職員としての証を探索しあい、実践的なディスコース(実践を創造し反省 する言語)とそのディスコースで結ばれた実践者の共同体を育てあう営みが授業の研修である。
⑦研究資料による報告でも口頭による報告でも,固有名の生徒が登場して,自分の言葉で 表現するように心がけること。その研究を通して教職員一人ひとりが何を感じ何に挑戦 してきたのか,教室の生徒たちはどう学び,何につまずき,どう克服してきたのか等, リアルに語られる必要がある。

○生徒の自立性と自律性を促す授業のあり方を進めるために
  (1)生徒(観)について
・生徒個々人がそれぞれ自主的に学ぶ授業に移行させない。
・一時間単位の検討ではなく、長い時間軸の中で一人ひとりの学びと成長を見据えなが ら日常の授業を検討していく。
・子ども一人ひとりの自然な言葉と身体による授業への参加を基盤として、具体的な事実を対象とする多様なイメージの交流を実現させる。
・「一人ひとりの生徒の思考そのものを参照にする意志決定の授業」をめざす。教職員は授業の絶え間ないデザインとその修正(授業の展開の選択や方針の修正)をおこなう。(授業デザインの作成)
・子ども一人ひとりの自然な言葉と身体による授業への参加を基盤として、具体的な事実を対象とする多様なイメージの交流を実現させる。
・個と個が摺り合わせられる授業→ディスコースコミニティ(議論しあう共同体)としての学級づくりを進めていく。また、発言しなくても一生懸命考えている生徒がいる 授業や、たどたどしい言葉が他の生徒の心に深く届き確かな説得力を持つような風土がある学級づくりを進めていく。
・級友の言葉をひとつひとつ味わって聴ける「学び上手」の生徒を育成する。
・どんな誤答の中にも、その答えを導き出した「理の世界」がある。必要なことは答えの当否を裁断することではなく、「理の世界」を洞察し、その省察を教室で共有し摺 り合わせて、真実へと至る筋道を共同で探索する。
(2)私たち教職員(観)について
・生徒だけが一方的に発達し成長することはありえない。学び成長し続ける者のみが教 えることを可能にする。《よく学ぶ者だけが教壇という舞台に立つ資格を持つ》
・教室に聴きあう関わりを築くことは、教職員の豊かな経験を基礎とする見識と粘り強 い取り組みを必要とする。
・ハンドサイン・起立礼・付け足し等、児童生徒を一方的な操作対象にしている授業, 教室の話し合いと切り離して人為的なゲームをしている授業,「虚偽」の主体性を演 じさせられている教室が見られる場合がある。生徒とじっくり「良い時間を過ごそう」 という意識で教室に立つことが,解決の確かな糸口を準備してくれる。発言を「引き 出し」たり「組織」したりする前に,生徒一人ひとりの言葉を「聞くこと」や「味わ うこと」へと教職員の意識をシフトさせる。求めるべきは「よく発言する教室」では なく「よく聴きあう教室」が発言を通して多様な思考や感情を交流しあえる教室を準 備する。この関係は逆ではない。
・教職員が一人ひとりの生徒の言葉に耳をすまして敏感に対応し,一人ひとりの生徒に ていねいに届く言葉を発すること(生徒一人ひとりの胸に届く言葉をていねいに選び ながら語りかける教職員の話し方)ができるようになって,はじめて生徒たちのなか に聴きあう関わりが生まれ,しっとりとことばを深く吟味しながら交換しあう関わり が教室に築かれることになる。
(3)教材(観)について
・「主体性」が理念として考えられる授業においては「自学自習」を理想化し,自己実 現や自己決定を理想化する傾向を生みだしている。しかし自学学習や自己実現や自己決定は独学の理想ではあっても,教材や仲間や教職員が介在する授業場面において理想化してはならない。
・生徒と集団(固有名としての生徒の存在)の実態や教育課題に即して、「生徒の状態」 「生徒にとっての意味」を考えて、特定の教材を選ぶ。何のためになぜこの教材を選ぶのかとその教材の意味を考えつつ教材を選ぶ。そしてその指導・支援にあたっては、その学習が生徒自身の課題となり、生徒が学習の主体となるために、どのような方法 で指導・支援するかが教職員の重要な課題となる。
参考文献 『授業研究入門』/『教育改革をデザインする』/『教育方法学』/『学力を問い直す』(岩波書店) 『授業を変える学校が変わる』/『学校を創る』(小学館)
『学び その死と再生』(太郎次郎社)から久次がまとめたもの。









☆21日目 生活ノートとICT・デジタル化 考察その2
「綴ることは認識すること」
 ―ひとむかし前までは、作文といえば、いわゆる生活文…くらしを題材とし、人のかかわりを綴ったもの…が定番でしたが、現在の教科書では、(小学校)2~3年生で生活文は「卒業」となり、あとは、ここでも表現活動の技術を習得する単元が中心となっています。手紙文・礼状・発表原稿・レポートなど、多様にとりあげ、最後はやはりプレゼンテーションをめざしていたるのでしょうか。
 作文は、表現や伝達の手段であることは間違いなく、伝えるための技術をみにつけることは、将来社会に出てから役立ちます。しかし綴ることにはもうひとつ、だいじな役割があります。僕たちはこれを「認識」とよんでいます。残念ながら、最初から作文が好きなこどもは、あまりいません。難しいからです。自分の前にある人・もの・できごとにぴったりな単語をみつけ、次には単語どうしを結びつけ文にし、さらに組み合わせていくという、語彙論、文法論を総動員しなければならない作業です。時には、できごとをよいととらえるか、悪いととらえるかなどという、価値判断もしなければなりません。自分の視点で書いているので、うそはかけません。鉛筆を進めるのは、大変な仕事です。就学前の子どもたちは、「話しことば」の中で生活しています。相手が目の前にいて、視線やしぐさ・表情なども伝達の手助けとなるため、多少語彙や文法がまちがっていても、おおよそ通じてしまいます。しかし「書きことば」ではそうはいきません。目の前に相手はおらず、頼りになるのは文だけなのです。だからこそ、必然的に対象をしっかりみつめ、掴もうとし、価値判断をすることになります。家族・友達・社会・自然などを題材として綴るなかで、子どもたちはしだいに「認識」を深めていきます。こういった「認識」を獲得する学習を基盤とし(あるいは並行して)、発表原稿やレポートを書くのなら実生活に根差した、重みのあるものとなるはずです。現行の教科書が、中・高学年での生活文指導を放棄しているのは残念です。飛躍的に認識の幅が広がる時期なのですから。もうひとつ、書くことの基本は、みのまわりのことを、あったことを、あったように、自分のことばで、です。時間軸に沿って、「○○でした」「○○しました」というふうに、過去形で書いていきます(展開的過去形表現といいます)。これがある程度できるようになってはじめて、前述のさまざまな機能を持った文章を書けるようになるはずです。くらしを書きなれてないと、いくら技術を教えても、いきなり手紙やレポートは書けないのは、昔から言われてきたことです。(『教育 おかやま(2014年3月発行)』より 日本語教育を考える P2~P3 岡山県教職員組合教育運動推進センター:学力保障「日本語」研究部会
 

 








☆20日目 教室掲示物は片付ける?     
 毎年3月、学級の掲示物はもう処分してしまいますか?最近では、「学級通信」「学年通信」「保健だより」「クラス目標」「班メンバー表」「清掃分担表」「朝夕のめにゅー表」などの多くは先生たちがコンピュータで作成しているようですが。
残しておいて、新学期にも必要なモノ(例えば学級通信を掲示していた枠だけでなく、1年間を通して子どもがつくったモノを掲示する学級文化を構築したいですね)は新しいクラスの生徒が制作する(生徒一人ひとりひとつの掲示物を作る!(用意できます))のはどうでしょう。このときに前年度の掲示物を参考資料として、班に道具と一緒に渡します。必ず「これより(前年度の掲示物より)よいやつをつくるぞ!」とがんばります。作ったことがない生徒や苦手な男の子も、例示があると班のなかまと一緒につくることができます。子どもが班の仲間と楽しく語りながらつくる時間は貴重です。










☆19 カウントダウンカレンダー」で、
クラスのつながりを確かめられる仕掛けをたくさん入れたいですね。









☆18 新入生歓迎新聞づくり(新3年生全員で!) 








☆17 個人答辞をもとに、卒業答辞に。
 代表生徒だけが考える「答辞」から、一人ひとりが三年間を振り返って個人答辞を綴り、それを集約したかたちで卒業生答辞を作成する取組をこれまでおこなってきました。子どもたちが取り組むワークシート文書を少し紹介します。

 2024旅立ちの時にあたってー個人答辞ー 道をひらいていく   
                
~私・わたしたちの○○中~

 この時期、3年生のみんなは中学校での生活をふと振り返ってみたりすることもあるのではないでしょうか。一人ひとりが、いろんなことを経験し学んできたと思います。良かったことも、そして悔やんでいることがあったとしても、その一つ一つは、あなた達がこれから生きていくになっていくことだろうと思います。大切にしていかねばなりません。
 もうすぐ旅立ちの時がやってきます。出発するためには、今の一人ひとりの姿勢が問われます。時の流れにまかせて、卒業式を迎え、そして進路先へ行く…そんな、ただなんとなくといった生き方をしないでください。自分の道を切り拓いていくためには、「いまの自分」がやっぱり大切です。
  なかまたちと共に過ごす時間をどれだけ大切にできるか?
  どう中学校生活を締めくくるかは、4月からの生活の土台となります。
 そしてもうひとつは
  これから自分がどんなことを大切にしていくのか?という生き方を決意することが大切になります。
 この中学校で経験したこと、学んだこと、これからの生き方や夢を「思いをこめて」個人答辞としてまとめましょう。
個人答辞の柱
①中学校生活の思い出、行事となかま(修学旅行・文化祭・体育大会・部活など)
②三年間を通して、なかまから学んだこと (中学校入学時の自分と現在の自分を比 べて、心の成長や今の自分のつくったできごと・学級活動・生徒会・総合学習(職場体験、ヒロシマ・オキナワ研修、渋染一揆、閑谷、協同学習、ガンバリ合う、支え合うな かま、ハンセン病問題学 習、進路学習など)
③進路についての課題と決意、様々な進路
 (進路や自分の夢・抱えている課題にどう立ち向かい、どうがんばっていくのか)
④自分たちの反省、課題及び決意(後輩たちや在校生に伝えたいこと)
⑤お礼のことば(今まで自分たちを支えてくれた人々に伝えたいこと)
⑥締めくくり
*○○期三年生として
・各クラスで書かれた、全員の個人答辞を集約する。
・集約したものをもとにして、3学年の答辞の全体像を考える。
・答辞代表を3年生全員で支える。3年生全員でよい卒業式を創る。
・卒業式を成功させるために、一人ひとりが大切にする意識を高め、声をかけ合い、あらためて団結する。







☆16 自立と依存は相反する?
 「依存」と「自立」を対立的に考えるのは誤りである。「依存」できる子どもは「自立」でき、「自立」できる子どもは「依存」できるのである。『授業を変える学校が変わる』/『学校を創る』(小学館)等で佐藤学さんが書かれていた内容を初めて読んだ時には衝撃を受けました。それからずっと「自立」の中身について考えていますが、先日、車いすユーザーである東京大学の熊谷晋一郎さんは「自立とは依存先を増やすこと」と言われた文章に出会うことができました。
自立とは「依存先を増やすこと」
 親は、「社会というのは障害者に厳しい。障害を持ったままの状態で一人で社会に出したら、息子はのたれ死んでしまうのではないか」と心配していたようです。でも、実際に一人暮らしを始めて私が感じたのは、「社会は案外やさしい場所なんだ」ということでした。
 大学の近くに下宿していたのですが、部屋に戻ると必ず友達が2〜3人いて、「お帰り」と迎えてくれました。いつの間にか合い鍵が8個も作られていて、みんなが代わる代わるやってきては好き勝手にご飯を作って食べていく。その代わり、私をお風呂に入れてくれたり、失禁した時は介助してくれたりしました。
 また、外出時に見ず知らずの人にトイレの介助を頼んだこともあります。たくさんの人が助けてくれました。こうした経験から次第に人や社会に関心を持つようになり、入学当初目指していた数学者ではなく、医学の道を志すことを決めたのです。
 それまで私が依存できる先は親だけでした。だから、親を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかった。でも、一人暮らしをしたことで、友達や社会など、依存できる先を増やしていけば、自分は生きていける、自立できるんだということがわかったのです。
 「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。(全国大学生活共同組合連合会インタビューより)





☆15 面接で不適切な質問? どう答えるの?
今日は、特別入試の結果発表でした。
生徒らは、教科の試験とともに、多くの子が初めて「面接」を体験したと思います。そして中学校では、「どんな質問が出たか」を報告書にまとめる取組をしています。それを受験校ごとにまとめ、「過去出題例」として蓄積し、次の年の三年生らが、それを参考に面接練習を行います。ここ数年は、業者の『面接ガイド』を活用しているようですが、やはり、自分たちが受けた質問をまとめることはとても大切だと思います。それは、後輩たちに「こんな質問内容がでたから、参考にしてガンバレ」という目的だけではありません。
就職試験は、応募者の適性・能力に基づいた採用基準とすることになっています。それは、応募者のもつ適性・能力が求人職種の職務を遂行できるかどうかを基準として採用選考を行わなければなりません。就職の機会均等とは、誰でも自由に自分の適性・能力に応じて職業を選べることですが、このためには、雇用する側が公正な採用選考を行うことが必要です。だから、面接での「これは、就職差別につながるおそれのある不適切な質問か」見定める力を生徒自身が持てる指導を進めていかねばならないと思います。合わせて、私たち教職員もそのようなことがないように、「面接での質問事項」をチェックし、子どもたちの進路保障を確かなものにしないといけないと思います。
 家族、住んでいるところ、資産などに関する質問・・・応募者の適性・能力を中心とした選考を行うのではなく、本人の責任でないことがらで判断しようとしていることです。このことは、前近代的な身分制により形成された部落差別により、教育や就職の機会均等の権利を侵害されてきた人たちを排除することにもつながるものです。住宅環境や家庭環境の状況を聞くことは、地域の生活水準等を判断することになり、主観的判断に属する事柄です。これらは本人の努力によって解決できない問題を採否決定の基準とすることになり、そこに予断と偏見が働くおそれがあります。
 思想・信条、宗教、尊敬する人物などに関する質問・・・思想・信条や宗教、支持する政党、人生観などは、信教の自由、思想・信条の自由など、憲法で保障されている個人の自由権に属することがらです。それを採用選考に持ち込むことは、基本的人権を侵すことであり、厳に慎むべきことです。思想・信条、宗教などについて直接質問する場合のほか、形を変えた質問を行い、これらのことを把握しようとする企業がありますが、絶対に行うべきではありません。
性別・男女雇用機会均等法に関する質問・・・性別を理由(または前提、背景)とした質問は、男女雇用機会均等法の趣旨に違反する採用選考につながります。また、男女共に同じ質問をしていても、一方の性については採用、不採用の判断に影響がなく、他方の性についてはその返答が採用、不採用の判断要素となるような場合は、採用において性別を理由として差別していることになります。
 



 
☆14 ひとに出会う授業のありようや、
     学習のまとめについて、「はっ!」とした本。

 知識を学んだり、当事者の語りを聴くことについて。『差別のない社会をつくるインクルーシブ教育 誰のことばにも同じだけ価値がある』(野口晃菜 喜多一馬編著・学事出版)の星野俊樹(P115)には・・・《知識を学んでも当事者に心を寄せる経験がなければ(情動的共感なしの認知的共感)、子どもの反応は、政治的正しさに囚われたままで終わり、自分の発言に用心深くはなりますが、行動は型にはまった人目を気にしたものになりがちで、洞察や分析はできても当事者に冷たいものとなってしまうでしょう。逆に、知識を十分に学ばず、当事者のライフヒストリーを聞いて「感銘を受ける」だけでは、(認知的共感のない情動的共感)、当事者に対する、上から目線の「哀れみ」や「善意」が子どもたちに広がってしまうおそれがあります。そのため、「異質な他者に共感しよう」と子どもたちの心情にただ訴えかけるのではなく、情動的共感と認知的共感の両方を子どもたちが得られる機会を保障する必要があります。多様性や社会的公正を効果的に教えるためには、感性と知性の両方に働きかけることが重要です。》(*ダイアン・J.グッドマン『真のダイバーシティを目指して 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』上智大学出版、2017年等を参照のこと)とありました。
「ひとに出会う授業」をもっともっと丁寧につくっていきたいと思います。







☆13特別支援教育と仲間づくり
 『関係支援を核とした学級づくり 「特別でない」特別支援教育をめざして』拝野佳生さんは、小学校と特別支援学校の教員経験をもとに、「関係支援」をキーワードとする学級集団づくりを提案し、「学び合い支え合う仲間づくり」という日々の教育活動から生み出した方法論を著者の実践を通じて具体的に提起されています。
2007年4月、学校教育法の一部改正で「特別支援教育」が正式に実施されることとなりました。「特別支援教育」が学校教育法に位置づけられ、すべての学校において、障害のある幼児児童生徒の支援をさらに充実していくこととなりました。私も、前任校で(2012(平成24年))特別支援コーディネーターとなり、校内の支援体制の確立に取り組んだ中で、自立や社会参画するという視点に立った支援には十五年間の育ちを見据えて進めることの大切さを認識しました。それと同時に特性のあるその子への「個別支援の手立て」について語られることが多いけど、その子が所属する「クラスや学年集団のありようや関係性の構築」についてしっかりと実践を進めることが重要だと議論した覚えがあります。現在も同様で、当事者(特別支援教育のニーズの必要な生徒)を包括する「認め合う集団づくり」に果敢にアプローチしていかねばならないと思います。前述の拝野氏の著書をもとにしっかりと語り合いたいですね。
 









☆12 生活ノートと「効率化、働き方改革」
「自主学習ノート」を初めて取り組んだ時期には、生活ノートと併せて2冊の点検に多くの時間が必要となりました。思い切って、生活ノートの提出をやめました。一日中、自分で持っていて、授業中には、教科担当からの宿題や提出物などの連絡事項をいつでもメモする、帰りの会には、教科係が書いた明日の教科や準備物を書く「生活ノート」としました。(大人が持っている手帳と一緒です。現在はそのようなマネジメント手帳がたくさんつくられていますが、生活ノートを朝の会で提出し、帰りの会までに担任がコメントして返すシステムを廃止することに、職場ではとても抵抗がありましたが。)「自主学習ノートに思ったことや生活のふりかえりなどなど綴っていいよ(自主的に)」とし、担任団は、「文章があってもなくても、しっかりと自主学習ノートにコメントする」ことを共通理解し、三年間取り組みました。今年、二十歳の集いで久しぶりに会った彼らはステキな大人になっていたなあ。




☆11 生活ノートのデジタル化
 担任生活を振り返ってみて、これまでの「生活記録ノート」の主なねらいは,「生徒指導の視点による生徒理解」の要素が大きかったように思う。記入の様子や内容から,普段の生徒の変化を見逃さず、対話を通した学級担任との信頼関係構築ための大切な手立てのひとつだった。また、同和教育実践が大事にしてきた生活綴り方教育の視点での記入指導、支援をおこない、学級通信に掲載し、クラスへの提案や学級会での話し合いにもつなげる実践を進めてきた。生活綴り方教育とは、社会の現実のなかで厳しい環境に置かれた子どもたちが、実生活を綴ることにより、自らの生活を観察し、自分たちの生活の事実を認識し、 それに働きかけて、たくましく生きていくように育てるという立場に立った教育実践の方法であ る。
何度も消したり書いたりした跡が残る生活ノート、消しゴムの消しカスがはさがっている生活ノート、採点ではないからと、青ペンでコメントを長年書いていた生活ノート・・・は、やはり生徒の「くらし」を知り、教育につなげる大切なアイテムであった。何かと「振り返り」が重要視される現在、「生活やものごとを見つめ、つづれる力」を育みたいと思う。また、私たち自身も表現の中の「子どもの真実を読む」力を鍛えなくちゃいけませんけど。
『さみしい夜にはペンを持て』(古賀史健 氏:ポプラ社 2023)を読み終えて、「書くことは考えること、考えることは生きること」という、かつて作文指導で教えてもらったコトバを思い出しました。この本をもとに「書くこと」について授業化をしてみたいと考えています。
 






☆10 生徒の作品展示・学級通信掲載の
   生徒名は〈明らかにする?〉〈匿名にする?〉(2/8)

インターネット場の匿名のコトバを使って、誹謗中傷、ヘイトスピーチなど人を差別する状況があります。そんな中で、学校ではやっぱり、自分の書いた文章、発したコトバ、つくった作品には、誇りと責任をもってほしいと思います。「えーはずかしい」「みんなにみせるのいやだ」を越える指導、支援を行い、「お互いに相手の考えや指向などをわかり合える「仲間づくり」を進めていきたいものです。(仲間の文章や作品を受けとめる集団意識の涵養)さて、そのためには、発表した生徒の発言を教員自身が受けとめることは大前提ですが、まずは、教師自身もせいいっぱい「自分のことを語る」ことが大切ですね。ありきたりのことではなく、「こんなことも話してくれるんだ。自分も話していいんだ」と思える内容を吟味し「子どもたちのモデル」に先生自身がなることです。」 






☆9 聲をきく(2/7)
 2015(平成27年)年に、当時勤務していた中学校区の保護者の方々の願いと市・県の積極的な取組の中で、勤務校に新しく自閉症・情緒障害特別支援学級が開級された。担任として私が、大切にせねばならないと思っていたことは、〈子どもと保護者の〈こえ〉をしっかり聴くこと〉だった。さらに、開級にあたっては、学習環境の整備(教室の構造化等)と、必要かつ具体的な合理的配慮の提供についても、保護者と市と学校がしっかり話し合いながら、綿密に準備を進めた。その流れの中で、入級する子どもの保護者の方々が、自主的定期的に開催する「親の会」に自分自身も参加した。
親の会では、お茶を飲みながら、一人ひとりの子どもの日々の成長を喜び合ったり、「子育て」や「社会的自立」についての悩みや心配・不安なことを出し合ったりしたが、いつも大きなテーマになっていたのは、中学校卒業後の「進路」であった。中学校では、子どもらは、一年時から計画的に進路・キャリア学習を進め、保護者もオープンスク-ルや高校説明会で進路情報を手にしていくが、特別支援学級在籍の子どもたちの保護者が「自分の子どもの発達特性」等に合った進路情報を収集し、進路支援の見通しをもつ機会はほとんどなかった。そして私自身も特別支援教育のニーズのある子どものための進路についての情報の少なさに、課題を抱えていた。
そこで、親の会で話し合い、まずは勤務している中学校で高校を招き、「進路情報を自分たちで手に入れて、勉強をしていこう」と取組を始めることとした。今年度は、学区の小学校とも連携して親の会を開催している。

第3回ひなせ親の会(情報交流会)〈ご案内〉
◎特別支援教育について、保護者の方々と一緒に考えていく会です。◎これからの進級・進路について新しい情報を交換できる会です。◎お子さんのことについて参加者と一緒に話をする会です。(カウンセリングや講座ではありません)
 
 日生中学校区の小・中学校が連携し、教育相談・情報交流の一環として、「親の会」を行っています。おもに上記の内容について、スクールソーシャルワーカー(SSW)の小寺さんからアドバイスもいただきながら、参加者がゆったりと「子どもたちのこれから」について、語り合う会です。(秘密厳守です。安心してご参加ください。)
 お茶を飲みながら、日頃思っていることや気になること、学校生活の中での素朴な質問なども合わせて、参加者の交流の場として、大切な時間にできたらと思います。
ご案内が大変おそくなり、申し訳ありません。お気軽に、申し込み・ご参加ください。                               
                     
第3回ひなせ「親の会」のご案内           
  
1 日   時       2024年2月14日(水)17:45~19:00  
2   場   所       日生中学校  E組教室(北棟1階)  
3 内   容  「進級・進学どんとこい!? こころがまえと手立て」
                    
「三年間、六年間を見通した成長をともに」をもとに意見交流
4 参加者  小・中学校の保護者   
                     日生西・日生東小学校   
日生中学校の先生
       SC   SSW  備前市地域おこし協力隊さんなど

       主催:日生中学校区連携協議会(特別支援教育部会)
5 連  絡       会場準備の都合がありますので、参加の希望をお早めに
       (2/9までに)各学校の担当までお知らせください。                             
                                        
      
◎なお、スクールカウンセラーの教育相談やSSWへのご相談
       も各学校に問い合わせください。

6 予 定  新年度第1回:4月8日(火)17:00~18:30(予定)      







☆8 班活動の可能性(2/6)
 『ザ・席替え(家本芳郎著)』を読んでいると、「替え替えではなくて、班替えという視点で考えんといけんよ」とアドバイスを受けた。支え合う・がんばり合う仲間(集団)づくりが課題であった学校にいた頃、その先輩先生は、「出来るのなら、子ども同士が関わる環境や状況をなるべく多く創出できるかを考えたいと思う。その取組・活動は、「個人でできること」、「個人でせねばならないことなのか」、「班の仲間とせねばならないことなのか」、「班の仲間とでできることなのか」とも言う。
 さて、個人でもできるけど、班活動でできること(ゆだねること)は例えば? □健康観察 □宿題・生活点検 □提出物あつめ(列の後ろから集めるのではなく) □班ノート □班に1枚(大きくコピー)だけ資料を配る □班紹介ポスター □新教科書への名前書き作業(始業式・入学式学活) □自転車整備点検  □長期休業明けの思い出語り合い □新入生歓迎新聞づくり □学級通信ロゴ作成・・・・関わる=わかり合うチャンスをどんだけ創れるかなあ。 そして、給食時間(コロナ禍からの、本当の脱却を!)あの、班の仲間と、たわいのない話をしながら、様々なことを知り合いなんと大事な時間だったか。(もしかししたら、コロナ禍で、一番、非認知能力等の育成を阻んでいたかもしれない時間)本校の1年団は復活させました。それも、子どもたちの「班のみんなと一緒に食べたいという要望」をカタチにしました。なんと楽しい豊かな時間だったか(*^o^*)。










☆7 受験期のなかまづくり(2/5)
 クラスのみんなで、「それぞれの進路実現に向けてがんばっていこう」と、あらためて仲間意識を強めるクラス(学年)イベントはどうでしょう。内定合格を手に入れた生徒、これから第1志望校の受験にチャレンジする生徒、「受験でクラスがバラバラにならないよう」に楽しく、深く、豊かな、がんばり合える学級活動を創造したいですね。
1イベント名:「ほっと一息、お茶を飲んで、みんなで受験を乗り越えよう」学級活動
2事前準備:(内定合格の生徒がひとくちクッキーを焼いてくるだんどり) 実行委員による、飲み物アンケート
3用意するもの:飲み物を入れるカップ 飲みたい(お気に入りの)粉末のもと(お茶やココア、ミルクティーなど)一人分 お湯を沸かすポット
4当日:生活班隊形・円形 
5式次第:①学級委員開会あいさつ (②クッキーありがとう披露) ③飲み物にお湯を入れる ④がんばろう乾杯  ⑤歓談・お代わり  ⑥ひとりずつ、思いや願いを語る・聴き合う。⑦お招きしたゲストからのエール(先生等)(⑧歌やパフォーマンス))⑨閉会・かたづけ 











☆6 今日は合格発表。(2/2)
 合格発表とはいいますが、全員が合格を手にするわけではありません。合否発表の日です。
もう、あまり使われないコトバですが、それは「すべりどめ(受験校)」。若い頃、気軽に使ったワタシに、先輩先生がピシリと言われました。「ある生徒にとっては「すべりどめ」かもしれないが、ある子にとっては「第一志望校」なんよ。高校間格差を助長するような言い方(意識)はいけんな。本人が第1志望校が不合格で「すべりどめ」に行くこともあるよな。「すべりどめ」の高校で青春を送るという意識を子どもに持たせてええんか?あるいは、友達が、「すべりどめ」の高校に第1志望で入学する場合もある。お互いが違う学校を受験するんだけど、受験を乗り越える、ともにがんばりあう「クラス・学園集団」をつくるなら、とことんコトバは大事にせい。第一志望校、第二志望校と言わんとね。」











☆5 学校から地域・社会へ発信(2/1)
○三年生は、計画的に取り組んだハンセン病問題学習での「学び」を、邑久光明園さんや次世代ネットさんに協力いただき、「啓発パネル展」を開催しています。学習内容をプレゼンしたり、提言したりする取組が各校で行われていると思いますが、に発信・協働する「立ち位置」に生徒自身が立つこと(人権を大切にすることを他者に伝えようとする立ち位置)は「自分ごと」の意識が高まると考えられます。自身の展示会を観覧した生徒の振り返り(一部)。

○書いた人の気持ちがどの説明文にもしっかりこもっていたので、ハンセン病の差別をなくしたいという心がとても伝わってきた。たくさんのパネルを見て、ハンセン病療養所へ行ったことがない人でも分かりやすいと思った。
○パネルでよりハンセン病について知れたと思うので良かったです。あまり知識がなかった邑久光明園についての展示もあり、学べました。
○自分以外のパネルは初めて見たけど、詳しいところまで書いていて知らない知識がたくさんあった。中学生がこのような活動をして、地域の人にも知ってもらうというのは大切なことなんだなと思った。差別・偏見をなくす第一歩として、まずは正しい知識を得ることが重要である。
○みんな調べたことと、調べたことに対して考えたことを詳しく書いていた。この展示によって、正しいハンセン病の知識を持つ人が増えるといいなと思った。
○ハンセン病についての漫画も見て、知らなかったことも知れた。伝えていこうと思った。
○パネルの内容によって数字が割り振られていたり、内容への理解を深めることができるような写真も一緒に展示されたりしていたため、とても見やすかった。実際に行われてきたことをただ単に述べるのではなく、そこから考えたことも書かれていたため、読むことが楽しくなった。
○みんなテーマごとに大切なことをまとめられていました。書いて、見て、終わり、ではなくて、次の世代に伝えていくことが大切だと思うので、どういった形でも大切なことを伝えていきたいと思う。









☆4 先生は連絡係ではなああい(1/31)
 少し前の、ある人権教育の研修会で、担任の先生が「朝・夕の会で私は連絡事項ばかり〈しゃべって〉いて、本当に大切なことを〈話して〉なかった。」という実践報告を聴いたことがあります。生徒へ伝えなくてはならないたくさんの事は、本当に、「担任」が言うことなのか?あらためて考えることができました。学級委員、係、日直、給食時間、ホワイトボードなど、子どもがこどもたちへ一生懸命に伝える場面や場所を、知恵をしぼってつくりたいなあと思います。係の子から仲間たちへ伝える「連絡票」にはしっかりと集中して耳を傾ける生徒が多いです。










☆3 学級・クラス通信でのキャッチーな見出しは?
 「私立一期入試」を終えて、どんな記事の見出しにするか?(1/30)

○〈私立一期入試 お疲れ様〉〈一期入試終える〉と無難な見出しになりそうなワタシですが、「誰」を意識して、「誰」のために、「何」のために(支えあうクラスづくり)の中での「こだわり」を大事にする」と考えると〈私立一期、みんなで乗り越えたぜ!〉〈共に乗り切った!またこれからも一歩一歩〉と、いうのもよいかも。〈がんばれ〉ではなく〈一緒にがんばろう!〉とすると、自分の立ち位置が変わりますね。












☆2 「弱さやニガテ」もわかり合えるクラスってステキ(1/29)
○得意なことや、趣味・特技を知り合う取組は多いが、自分の特性や、苦手なことを語り、共にわかり合い、支え合うクラス集団づくりはとても大事です。1年生は計画的な取組の中で、そんなことをお互いに語り合い、教室にも掲示しています。


学習計画
【1時間目】『DVD君が僕の息子について教えてくれたこと』より
                 
【2時間目】クラスでクラス わたし あなた なかまを〈よく〉しるために
  ・カレーライスワークショップ(トレーニング)、真実を見抜トレーニング2(BBCニュースから)             
【3時間目】『わたしあなたそしてみんな」
 ・特徴や持ち味(動物)だけのヒントで、それが誰なのか当てるワークショップ

【4時間目】ワタシとワタシのとなりの「あなた」と共に生きていくために
    ・エリアテーチャー:東備地域自立支援協議会子ども部会 塚本さん、備前市役所障がい者福祉係 松下さんをお招きして~5時間目への提起
【5時間目】ここだけのみんなに知ってもらいたいこと。わかってほしいこと」ひとつ報告会
 ・これからがんばる「進路実現」や「学校生活」にむけて、クラスの仲間に知ってほしいことをまとめ、語る。報告を受けとめる。
 
      








☆1 受験事前指導(1/24)
○入試への心構えや注意事項、持ち物の確認などはとても大切です。そしてもうひとつ、生徒たち自身がお互いに、これまでの努力を讃え合い、「明日はがんばろうね!」と声をかけあう時間をとりたいものです。グータッチや握手、ハグをしながら、健闘を誓い合うことは、学年仲間の絆が一層強まるのではないでしょうか。学年の先生の一人は「先生の専門教科(理科)の知識を全部インストールするよ」と、希望生徒と握手で送電(?)してました。